9 被災ドキュメント

※文中の住所,名前などの個人情報は■■に変換して公開しています。


本章の原稿は、主に平成7年8月に執筆されたものである。
また、住所は震災当時の居所である。

9.1 教職員による手記

9.1.1 そのとき、私は…

□ 直後の街

 長く激しい揺れだった。途中何度かこれでおさまる、と思ったが・・・。揺れがおさまるとすぐ兵庫区に住む子供のことが心配になって着替えもそこそこに玄関に出た。出がけに台所を見るとコップなどが幾つか床に落ちて割れていたが、そのままにして車に乗った。外は静かで何事もないように見えた。
 西神戸有料道路に入ると数百m先を1台の車が見えるのと、街灯が切れていることくらいで、東の方が明るくなりかけたいつもの静かな朝であった。料金所には明かりがついていたので「ここは電気がきているのですね」といって声をかけ、峠の下りにかかると、薄暗い町並みから幾筋かの細い煙がまっすぐに上がっているのが見えた。少し地震の大きさが実感できたので、路面にも注意しなければと思いながら有料道路を抜け、路地にはいるとそこで初めて地震のすごさを知った。
 家が壊れ、アスファルトは盛り上がって割れ、車の中までガスの臭いが立ちこめ、多くの人が立ち尽くしていた。路面に注意しながら車を進めたが、途中で倒壊家屋のため道が塞がれたため、車を置いて行こうとしたが、「そこの火事場にもうすぐ消防車がくるので邪魔になる」と言われ(結局最後まで消防車はこなかった)別のところに車を移し、懐中電灯を手にして降りると、側溝には溢れるほどの大量の水が音をたてて流れていた。走っていく途中で「懐中電灯を貸して!」と大きな声で云われ、その人の指示で物置を照らすと、中から長い消防用のホースを出してきた。が、「金具がない!」といって■■いたのを思い出す。
 気がせくのですぐに失礼して先を急ぎ、程なく目指す家が見え、無事に立っているのを見たときは、中の様子はともかくとしてほっとしたのだった。

(■■・神戸市西区)

□ 自宅で、そして学校で

 そのとき、私は二階の寝室でまだ眠りの中にいた。揺れに気づいたときにはつけていた豆電球はすでに消え、闇の中で夢中で子どもたちを抱え布団をかぶった。どのような揺れでどれだけ続いたかは就寝中だったため、30秒?10Hz位?主に横方向に大きく揺さぶられた、という記憶ぐらいしか残っていない。子どもがいることでもあり、出来るだけ安全を確保すべく、余震の合間に懐中電灯の明かりを頼りに着替えをかき集め、本棚が倒れ本が散乱した中を一階まで下りた。すぐに外に出られるよう外套をきたまま窓扉を開けて、携帯ラジオを聞きながら夜が明けるまで家の中で過ごした。明るくなるのを待って家の内と外の様子を確認した。室内は揺れの方向によるのか、寝ていた部屋のタンス類は幸いにして15cmほど動いただけであったが、隣室の和箪笥は倒れていた。またキッチンの吊り戸棚やリビングの棚という棚から物が落ちて散乱し、吊り下げ式の照明は外れて落下していた。キャスター付きの台に載せていたテレビ等は動いただけであった。
 外からわが家を見ると屋根瓦はずれていたが、かろうじて強風対策用に張っていたネットにひっかかって落ちずにすんだ。外壁には大きな亀裂を生じていたが、家屋倒壊等の危険性はなかった。外回りでは、家に沿った形で地面に開口約40mmの地割れが走り、ブロック塀の一部は倒れ、隣家との境の擁壁が一部せり出していた。また湧き水等が常時流れている側溝も壊れ底面が波打ち抜けていた。近隣の家屋も瓦がずり落ちたりと、わが家と同程度の被害かと思われたが、隣家3軒は後で全壊の判定を受けた。
 ガス、電気、水道のとまった朝は室温10度で寒く、保温の切れたご飯は冷たかった。わが家でただ一つの旧式の反射型石油ストーブで湯を沸かし、買い置いてあったカップラーメンを食べた。昼前に電気が復旧したのを見届けて、山陽電鉄■■駅の少し北側にある自宅から自転車で高専へと向かった。道路はあちこちで波うち、塀や石垣が崩れた場所も数多くあった。明舞北センター前あたりではガスのにおいが立ちこめ、道路が燃えていた。垂水警察署から、学園都市駅に抜ける峠道を通ったが、峠を越えると道路の状態も建物の様子も全く被害がないかの様な印象であった。高専につき、学生主事室で転倒したテレビのあとかたづけをされていた■■先生に会い、安否情報等交換し、当面の学校の対応を知ることが出来た。私の研究室や実験室では、書庫が動き上においてあった温度計が落ちて割れ、一部の実験装置やプリンタやハードディスク等不安定な置き方をしていたものだけが落下等の被害にあった程度ですんでいた。余震の危険もあることから、積んであった本棚や機器類は出来るだけ床に倒れないように置き、コンセントはすべて抜いた。
 自宅の電話が不通になっていたので帰宅途中に公衆電話から親しい人たちの無事を確認し、開店していた生協で長い列に並んで食料を少し求めることができた。
 翌日から家の内外の補修復旧作業に追われた。セメントでの側溝亀裂の補修、落下した照明器具の取り付け、移動・転倒した大型家具の復旧、割れた瓦を屋根からおろし、ブルーシートをかけるなどの作業を行った。その作業を進めていく中で家族の安全を守るためには、家屋には日頃からの継続したメインテナンスが必要なことを痛感した。また、学校においても、学生たちの安全を守っていくためには、校舎等や本棚や機器の据え付け方といったメンテナンスはもとより、定期的な緊急時の行動方法の訓練や安全確保のための確認作業といった、今回の災害の教訓を風化させないソフト的なメンテナンスが必要だと思った。

(■■・明石市)

□ 研修先で

 その時私は、前日から、研修先の■■大学(■■区)に泊り込み、ある論文を完成させるべく、数人の大学生と文章や図面を作成していた。ガタガタときたかと思うとすぐに停電となった。そのあと、グラグラ揺られ続けた。これは地震なのか、それにしては搖れすぎだと思った。いつまで続くのか。真っ暗闇で搖られ続けるとき、建物が徐々に傾いていった(そう感じた)。「あーあー、建物の下敷になって・・・ああっ、もうだめだ。」これが、死の直前の気持ちなのか。恐怖だった。搖れが収まったとき、不思議にも床は正常でまっすぐ立てた。この不思議さは、後日、大きな横搖れの加速度(六甲は震度7)と鉛直下向きの重力加速度が合わさって、斜め下方向に合計の加速度を感じたためだと説明を受け納得できた。
 さて、まっすぐ立てても、真っ暗で何も見えなかった。手探りで、壁伝いに3階から1階まで降り、窓から外へ飛び出した。車のラジオで「震源地は淡路島北部です」と聞いたとき、私は再びパニックになった。私の住まいは、明石市二見町である。「六甲でこの搖れなら、より近い二見はどうなっているのか」「妻と子供たちは?」即座に、マンションの倒壊を想像した。(このときに、活断層の方向性を知る由もなかった。)すぐ公衆電話に走ったが、既に10人程の列が。さらに近くのボックス電話に走ったが、何の反応もない。こうなりゃ、帰るしかない。車で大学を出た。
 その途端、目の前に広がる光景は、私を震撼させ、ますます家族の身を案じさせた。家が傾き、地面がひび割れ段差ができ、人々は立ちすくんでいる。信号機が消え、到るところで車が立ち往生している。三宮あたりでは、道路の段差が30cmぐらいあり、その前で一旦とまるも、後ろからせかされ、車のおなかを擦りながら前進した。東行きは、段差を登れなくて立ち往生している。段差の方向が逆でよかった。さらに、高速道路下の2号線を進んで行くと、半分落ちかけた高速道路が斜めに見える。余震がきたらこの下敷になるだろうと思うが、その下を進まざるをえない。長田あたりでは火災の煙で、もやがかかっている。道路に飛び出してくる人、高速道路から落下した鉄の塊、慎重に運転した。
 ラジオ関西が速報を流している。地元だけのことはある。既に現場に出て、インタビューをしている。「今私の息子があの火の下です」アナウンサは絶句して、言葉が続かない。私も家族が今どんな状況なのか不安でたまらない。「速く走ってくれ」しかし、道路はゆっくりとしか進めない。
 塩屋でJRをまたぐ高架道路を渡るが、15cmぐらい隙間ができている。今にも落ちそうである。でも渡るしかない。さらに壊れた家が一車線を塞ぐ。朝霧に来て、浜国(国道250線)の方に抜ける。あと少しだ。なんとか無事でいてくれ。明石の中心街を抜けると、被害がなんとなく少なく思えた。
 さらに二見に近づくにつれて、明らかに被害が減っている。大丈夫なのか。角を曲がるとき、大いに緊張した。マンションは立っているか。立っていた。「よっしゃ!」。車を止め、部屋に入ったとき、「大丈夫か」私は大声で叫んでいた。妻は大学関係者に電話をしていた。私の姿をみた途端、腰が抜けたように崩れ落ち泣きだした。地震発生から約3時間が経っていた。「半分あきらめていた」といったきり妻は号泣し涙が止まらない。妻の気持ちが痛いほど分かる。ごめんよ。ただ私は抱きしめた。子供たちのはしゃぐ声と、妙なコントラストを見せていた。
 物理的には食器が割れる程度の被害しかなかったが、連絡不通の3時間に感じた精神的苦痛は、今でも忘れられない。不安、焦り、自己嫌悪、自責。いざというときに家族の力になれなかった。でも家族が全員無事で、またやり直せる。頑張ろう。今そう思っている。

(■■・明石市)

9.1.2 被災して

□ ガスにも追われて

 夢を破る天井の大きな振動に、我れに返ると、続いて周りに倒れてくるタンスの音、階下から食器の割れる音。思わず布団を被り、揺れが止むのを待つ。ほんの短い時間が、長い長い時間に感じられた。真暗な中を手探りで衣服を身に付けた。どうやら家はやっと立っているらしい。階段の側壁が落ち、土でいっぱいの所を通り抜け階下にたどり着いた。足の踏み場もないほど、ガラス、食器、本などが散乱していて危険だ。やっと玄関に出て靴をさがし、屋外に出る。外はほの暗く、至るところで道路を塞ぐように家が倒れている。
 人々の家族や知人を捜す声。私も妻と共に近くに住んでいる母の安否を尋ねるために道を急いだ。表口のシャッターの鍵を開けても、家の傾きがひどく、少しも動かなかった。左手にある勝手口の方へ回ると、隣のビルが傾き、その隣の大きなビルは一階の左側が折れ大きく傾き危険である。まだそのビルに閉じ込められている人がいるらしい。急いで勝手口に行ったが開かない。入口の板戸を足で蹴破って中に入ったが、行手にはガラス戸棚が倒れていて、危なくて入れない。大声で母を呼ぶ。奥の方から元気な返事がする。あゝ無事でよかった。少し落着きを取り戻し、奥の入口から家に入った。幸い母は地震が来たとき、すでに起きていて地震を感じてとっさに廊下に逃げたので無傷であった。ぐらぐらと余震が来たので、安全な風呂場で止むのを待っていた。やがて最小限の物を持って、自宅に母を連れて帰った。
 近所の安否を尋ねたが、幸い知人に死傷者はなかった。しかし、50メートルぐらい離れたアパートが全壊し生き埋めになったようで、不明だという。近所の建物の壊れた人々は親類を頼って避難して行った。
 17日の夜、石屋川の方角の空が真赤になり火事が広がっているようだった。余震の続く夜を車の中で眠れずに過ごし、翌18日になった。石油ストーブを屋外に出して暖を取りながら、パンと牛乳の朝食を食べることができた。
 昼過ぎ、御影浜のLPGタンクからガス漏れが起っているという噂が伝わり不安を募らせていたところ、警備員の巡回で避難命令が出たことを知り、いよいよ大爆発が起り火の海になることが予想され、慌ただしく身支度をして山手に向かって国道2号線を越え、JR高架を越えて逃げた。その途中で見た、家々の倒壊やJRの高架の柱の破断はすさまじいものであった。三角公園で小休止すると、続々避難者が集まって来た。小雨が降って来たので、意を決して、少し遠い御影北小学校まで逃げることとし、急坂を登って行った。
 避難所には人があふれていたが、やっと理科室の一隅の二畳ぐらいの広さに三人が落着いた。電灯が付き、テレビの情報が得られ、暖かい部屋に居るだけで安心だった。夕食には乾パン二枚半が支給された。三日後に、御影から徒歩で西宮北口に出て奈良に避難した。

(■■・神戸市東灘区)

□ 半壊したが

 その朝、私は揺れで目を覚ましたのか、うつらうつらしている時に地震にあったのか覚えていない。記憶の始まりは、震度3から4程度の横揺れからである。数秒程度の揺れが2回続けてあった。本箱から本が落ちてくる。ラックの上のビデオが落ちかけコードで引っかかり宙ぶらりんになっている。物の落ちてきそうな方向には寝ないように心がけていたので最初はあまり恐怖心もなく、じっとおさまるのを待っていた。神戸に来る前に関東にいたので、少し地震には慣れていたのかもしれない。しかし、次に「ドン」と縦揺れがきて部屋の壁が落ちてきた。この時になって、ただ事ではないと思い起き上がり、比較的丈夫そうな柱と梁の部分に身を寄せ、揺れのおさまるのを待ち外へ出ようとした。
 私の住まいは、少し古い2階建ての文化住宅の1階であった。通路を挟んで2世帯が住んでいたが、その通路部で大きく割れて共通の入り口は開かなくなっていた。暫くすると町内会の方が見回りに来て下さり、入り口の戸を壊し脱出に成功した。真っ暗な中、近所の方と話をしながら夜が明けるのを待った。
 私の家は長田区の北東部にあり、比較的古い家はかなりの被害を受けていたが、壊滅的という状況ではなかった。明るくなってから家の中に入り、余震を気にしながら朝食をとり、部屋の片付けを行った。家の中はいたるところ傾き、じっと見ていると気分が悪くなるが、幸い実際の被害は少なくほっとした。その後は、ラジオを聞きながら歩ける範囲で見て回り、地震の凄さと消すことのできない火災の脅威に圧倒されるだけであった。
 今思うと非常に暢気な対応であったし、何もできなかった。これが灘地区であれば、気が付く前に押し潰されていたであろう。たまたま住んでいる場所が被害が少なかった。
 運が良かった。それだけである。

(■■・神戸市長田区)

□ 解体に涙す…

 そのとき、私は、何事が起こったのかと思ってベッドの上に飛び起きると、妻も同じように座っていた。地震だと分かるまでにしばらくかかった。このままではどうにかなりそうな感じがしたので、何も置いていない部屋に急いで、移動した。その後もひどい揺れが続き、あちらこちらの部屋から形容し難いような音が聞こえた。まず眼鏡がないとどうしようもないので、探すと、運良く壊れずに机の上から床に落ちているだけであった。防寒服を着てとりあえず外に出ることにした。近隣の人はほとんど外に飛び出していた。道路を隔てた前の家は、まだ、瓦がずれて落下してきており、危険な状態であった。屋外の人は、異口同音に地震のすさまじさを語り合っていた。しかし、見たところ、近隣の方で負傷した人はいないようであった。屋根瓦はどこもひどく傷んでいるように見えたが、周辺に傾いているような家屋は見あたらなかったので、誰もが一応安堵した。
 少し明るくなって、屋内に戻るとそのひどさに愕然とした。ベッドの横のタンスの上置きは落ちてベッドに寄り掛かっており、その上に置いてあった花器十数点はベッドの上からその間に落ちて木っ端微塵になり、足の踏み場もないような状況となっていた。天井近くまで縦長の棚に置いていたステレオセットはバラバラになり、洋服ダンスの上の人形ケースはことごとく落下してガラスの海と化していた。熱帯魚の水槽3本の内2本が、最近床暖房とカーペットを敷いてもらったところへ落下して水の海となり、手の付けられない状況であった。しばらくは、室内でも靴を履いての生活が続いた。
 妻の妹の姑が倒れてきた冷蔵庫の下敷きになり亡くなった。医師の診断によると、冷蔵庫の角が頭に当たり即死の状態であったらしい。一方、私の父は一人暮らしであるが、その日に限って早く起床して外に出かけていたので、無事であった。あとで帰宅してみると、タンスの上半分が落下し、ふとんが敷いてあった頭の部分の畳が裂けていたそうである。
 建物は、ゆがみもなく建具も一カ所を除いて開かないという所はないので安心したが、外部を見ると、基礎に無数の亀裂が入っており、二階を支えている外柱の何本かは基礎からずれているのが確認された。外壁は、1ヶ月ほど前にサイディングをしてもらったので分からないが、中でモルタルが落ちているようである。その後、新聞でサイディングをしていたので倒壊を免れたという記事を読み、良かったと思った。市の判定では半壊であった。
 このままでは強い余震があると倒壊する恐れがあるので恐ろしい、という妻の言葉でやむなく建て替えを決意した。
 8月中旬の解体に際しては、増築、改築を重ねて手を入れてきた部分が崩れ落ちるたびに涙の出る思いであった。
 一番有り難かったのは、学生時代の同級生が安否を気遣ってくれ、遠くから電話のかかりにくい中、連絡をとってくれたことである。
 現在は仮設住宅に住み、不自由な生活を送っているが、新しい住まいが出来るまでは、と希望を持って頑張っている。
 私自身、何とか人の世話にはならずに今日まで過ごせたが、震災当初から、ボランティアとまでいかなくても何か私でも出来ることがあったのではないか、と焦燥の念に駆られている現在である。

(匿名・明石市)

9.1.3 あれからの日々

□ 心の痛む惨状

 あの揺れは未だ体験しないものだった。屋根の瓦が崩れる音、隣家の犬の吠える声、それに室内の物が壊れる音。暗がりの中でラジオを聴くと震源地は淡路の北だという。明るくなって近くをまわったが、電柱が折れ、道路があちこちで陥没してガスの匂いが充満している。ブロックの塀や門柱が倒れているが、倒壊している家はない。震源地のすぐ北でこれぐらいである。
 「この分だと昼から授業はあるだろう」
そう決め込んでいた。
 9時半頃、東京の息子から電話がかかってくる。
   「(いきなり)生きとったか。
       家はつぶれとるやろ」
 「(何を大げさな!)そう簡単に死なんど。
      家もちゃんと立っとるでー」
 朝早くから寮の仲間に起こされ、神戸の家族はきっとやられているとおどかされ、電話をかけようとしたが通じなかったと言う。東京では既に阪神の惨状と長田の火災の状況をテレビで見ていたのである。昼前になって電気が通じ、テレビの画面を見て私は驚いた。そういえば、朝早くから焼けた紙切れが空から降っていた。とめてある車が黒くなるほどだった。午後、ビニールシートを張るために次男と屋根に上ったが、東の山の向こうに煙が高く上がっているのが見えた。それが長田の火事であった。
 イギリスの■■氏から電話がかかってきた。家族の安否をきくと、「神戸の火事はもうおさまったか」
神戸を知っているイギリス人は少ないし、詳しい報道はなされなかったようであるが、神戸高専に3年間いた彼にはもちろん重大なことであったろう。  一週間後、須磨に友人を訪ねた。途中、道にあふれるがれきを片付けている中年の男性が手を休めて話した。
 「今度の地震さんは気紛れや。淡路の北で生まれはって、そのまま真っ直ぐ北の明石、舞子、垂水には行かず、わざわざフェリーに乗ってこの須磨に上陸されたんや。それからあんまりあっちこっち寄り道もせんと、まっすぐ東へ歩いていかれたんや」。その人はもうすっかり諦め切ったようにまたがれきの山を片付け始めた。
 六甲の町を歩いた。がれきで道が塞がっている。友人の家は大きく傾いていた。六甲道駅の南側に住んでいた高専卒業生の家を探したが、あたり一帯の家が倒壊していた。家屋の下敷きになった母を助け出すのに4、5時間かかった、と後で聞いた。あたりの惨状に涙を抑えることもできない。垂水以西はやはり別の世界だ。後ろめたい気がする。
 担任をしていた■■のクラスでも多くの人が震災にあった。12人の家が全、半壊した。親類へ移り住んだり、また学校で避難所暮らしを続けている人もいる。ボランティア活動を続けている人もいる。様々なことがあったが「人に対する思いやり」も学んだことだろう。授業が再開されると、毎日4、5時間もかかって通学してくる人もいた。また、クラスの友人を何日も泊めてくれた家もあった。

(■■・神戸市垂水区)

□ 担任として

 1995年1月17日(月)阪神大震災当日朝、出勤するまでは神戸市(近隣の都市も)がこれほどひどい状態になっているとは思っていなかった。担任をしているクラスの学生が心配で、自分の研究室から1,2名の学生に電話をかけたが、その間にも強い余震が続き、3階の研究室にはおれなくて、別棟平屋の機械工場に避難せざるを得ない状態であった。これ以後、自宅と学校から学生に電話をかける日々が続いたが、当日の朝は通じていた電話がほとんど通じなくなってしまった。
 (当時)の在籍学生42名の安否確認の経過は次のようであった。

日 時 担任 学生 未確認
1/20 10:30現在 11名 11名 20名
1/20 16:30現在 28名 10名 4名
1/23 10:00現在 31名 10名 1名
1/30 9:00現在 33名 9名 0名
注)担任:担任で確認、学生:学生の情報

 その後も連絡をとり続けた結果、全員の無事が確認できた。家屋が全壊したり全焼した学生は何名かいたが、家屋の被害を別にすれば、本人とその家族に被害がなかったことを喜んだ。学生へ連絡が取れなくて困っているとき、何名かの学生が自分の近くの友人の安否を積極的に確認してくれたことは担任としては非常に助かった。そういう学生がいる反面、学校が機能していないことをいいことにして何日も遊び回っていた学生もいたようである。せめて担任へ連絡を取る努力ぐらいはしてもらいたいものである。
 8月現在、クラスのほとんどの学生の就職先や進学先が決まり、振り返ってみると、あの混乱の中からよくここまでこれたものだと思う。

(■■・明石市)

□ 学生の底力

 震災後の大混乱の中で,県外からの電話連絡(私は大阪府■■市に在住)がままならない状況下であったが、クラス委員長の活躍によってクラスの学生全員の安否を何とか確認できた。幸いに私のクラスでは死傷者は出なかったものの、家が半壊・全壊した者が数名いた。
 その内の一人は、家が全壊し、前の空き地に避難しているという。私はミニバイクにまたがり、その学生の居所を捜しに出かけた。その途中で見た被害の甚大さは筆舌に尽くしがたい。
 ようやく捜し当てた場所で、その学生は私を元気に迎えてくれた。そこにはすでに同じ卒研の友人が駆けつけており、テント小屋を建てる作業を協力しながら行なっていた。意気消沈している姿を想像し、どのように話し掛けようか、どう慰めようかとその言葉が思いつかず、道すがら考えあぐねていたのである。それが杞憂であったことを彼の笑顔が教えてくれた。
 その家は文字どおりの全壊、完全にペシャンコになっていた。この現実に負けず、正面から受け止めようとする学生の力強い姿がそこにあった。彼のお父さんが「学校の勉強のことはよくわからないけれど、こういうことなら教えることができる」とおっしゃりながら、トントンカチカチと腕を振るっておられた光景が強く印象に残った。
 もう一人の学生の家も全壊。1階がなくなり、2階の部屋がすっぽりとその部分に落ちるという潰れようであった。その学生は1年生のときから常に首席を続けていた。
 震災後、第5学年は後期末の定期試験は行なわず、レポート試験となることが決定された。「首席で卒業したい」という自尊心が強い意志となって彼を支えていたのであろう。校内のクラブ合宿所に仮宿泊所が開設されるといち早く入所し、完成度の高いレポートを次々に作成していった。そして、みごとにその目的を達成した。
 阪神大震災がなければ、彼は楽々と首席の座を維持しつづけたであろう。家を失うという逆境にもめげず、目的を果たした彼の成績は、より一層価値の高いものとなった。
 被災した現実にひるむことなく、前向きに立ち向かっていくこの二人の学生に、彼らが持つ人間としての底力を見た。

(■■・■■市)

□ 電話との苦闘

 あの日は身体が宙に浮かされて目が醒めた。家の中はまるでおもちゃ箱をひっくり返したようである。ラジオでは淡路島北部が震源だと言う。少し明るくなって周りの家を見渡すと、大きな地震の割には別段大きな変化が見られなかった。家の片付けをしながら、震源に近いここ(垂水区桃山台)でこの程度の被害なら授業は出来るだろうと思っていた。3時限目の授業には間に合わせなくてはと思いながら家を出たが、市内方面行きの道路の大渋滞にまず驚いた。10時ごろに学校に着いたが駐車場に車がほとんどないのに不思議な思いをしながら、誰に会ったのか忘れたが、大災害になっていることを聞かされて、急いで部屋へ行きテレビを見て唖然とした。東の空を見ると、真っ黒な帯状の煙が上がっていて、その太い太い煙の下の出来事を思うと、事の重大さに言いようもない恐怖心に襲われた。
 学生の安否が気になるも、その日は電話も皆目掛からず、片付けるにも段々と気が重くなり、中々手が進まなかった。1日目で確認できたのは本人から電話をくれた2人だけだった。2日目も電話の状況は良くなく、3日目の19日になって、少し掛かるようになったので、ずぅっと電話にしがみついてロ−ラ−作戦を開始した。受話器を取っても発信音が鳴らない、ダイヤルの途中で話し中の信号が鳴る、ダイヤルを無事終了しても話し中の信号、混み合っています、暫くしてから掛けてください、等々が大半で、ようやく呼出の信号があっても相手が出ない。3時間ほど掛け続けて電話が通じて直接安否の確認ができたのは9人だった。それも加古川、姫路、川西と被災が少ないところが掛かりやすかった。ただ、とても有り難かったのはこの9人の学生から間接やさらに又聞きを含めてクラスのほぼ全員の無事を確認できたことだった。また、他のクラスの安否情報も聞いた分は学生主事室に届けた。この時とても役にたったのは電話の再ダイヤルの機能であった。それ以後は、学生に伝えたいことは姫路の■■君と■■さん、市内の■■君に伝へ、そこへ各学生が連絡をとるようにした。電話は姫路−神戸市内間は昼間でも比較的通じやすいのと、夜間になると市内でも結構通じて学生間で連絡を取り合って情報を流しあってくれた。
 それでも、それからの日々、学生と直接に確認の話をしたくて、あの掛かりにくい電話を相手に悪戦苦闘の毎日だった。
 1月30日の震災後初めての登校日に41名中5名は欠席したが連絡があったし、36名が元気な姿で登校してくれたのを見て、とっても久し振りに会ったような、懐かしく、嬉しく、そして有り難く感じた。感謝感謝

(■■・神戸市垂水区)

□ 通勤片道3時間半

 1月17日早朝、自宅2階のベッドの中で大きな地震を感じた。私は地震の多い関東に4年間住んだことがあるので震度3〜4程度の地震は何回か体験したことがあった。しかし、そのときはあまりに大きな揺れが長時間続いたので「本当に地震だったのか?」と疑ったほどであった。その直後、1階で家事をしていた母に「大丈夫?何ともなかった?」と聞いたが、2階よりも多少揺れが小さかったのか「何ともなかったよ。大きな地震やったねえ。」と意外にあっさりと返事が返ってきたのですぐに安心してしまった。これは私の自宅が■■市にあることにほかならない。そのときは確かに大きな地震だとは思ったが、死者5500余名におよぶ大震災が起こったという感覚は全くなかった。
 自宅にほとんど被害がなかったのでそのままいつもどおり学校に行く支度をした。いつもと違ったのは地震のための停電でテレビのかわりに携帯用のラジオを聞いていたことだった。ラジオのおかげで淡路島の北部が震源地であることはすぐにわかったが、被害の程度などはほとんどわからなかった。ラジオでも「大きな地震のためかなりの被害がでている模様です。」というコメントを何度も繰り返し流している程度であった。その後、「鉄道が不通で回復の見込みが立っていない。」という情報が流れた。まだそのときは、なぜ地震程度で電車が動かないのか不思議に思いながら「たぶん今日の午前の授業は休講になるだろう。」などとのんきなことを考えていた。それから午前7:30から8:00の間に当時■■の学生数人から「今日学校はあるのですか?」という内容の電話がかかってきた。そのとき私は「電車が不通だから少なくとも今日の午前の授業は休講になる。午後からはひょっとしたら授業があるかもしれないのでわかり次第連絡するから。」と対応した。いまから思えば何と頓珍漢なやりとりをしていたのだろうかと情けなくなってくるが、その時点の私がもっていた情報から考えると仕方がなかったのも事実である。
 いつもなら自宅を午前8:00に出るのだが、そのころ確か電気が通った。そこでまずテレビを付けた。テレビではちょうど地震のことが話題になっていた。しばらく見ていたがラジオと同じでその時はまだ詳しい状況がわからなかったのですぐに家を出た。学校に向かう途中、道路の所々でヒビが入って段差となっていたり、多くの家の屋根瓦が崩れていた。ふだんは自宅から学校までは車で約40分かかるのだがその日は車が少なく30分程度で学校に着いた。車を降りると機械工学科棟の入口付近のタイルが割れていたので震源に近かったため揺れが大きかったのだろうと思ったが、研究室に入ってさらに驚かされた。そもそも研究室のドアが本棚で塞がれて普通にあけることができず、やっと通れる程度の隙間を開けるのに30分近くかかった。部屋に入るとコンピュータのディスプレイや育てていた観葉植物の鉢が床に落ち、そのうえ本棚の本や書類などすべてが散乱している状態であった。そのときは、もしこの部屋であの地震に遭っていたらと背筋が凍る思いがした。とりあえず部屋を使える状態にしようとラジオを聞きながら3時間近くかけて掃除をした。そのときはまだ余震に関する知識が全くなかったためであるが、いま考えると余震が続いている状況でよく掃除したものだと思う。部屋が片づくとそれから機械工学科の技術職員室に行き、テレビで三宮などの被害がひどいことや長田で火事が起こっていることを知った。しかし、その時点でも私は2週間も授業再開の見通しが立たないとは思っていなかった。
 状況がつかめないまま1日が過ぎ、事の重大さがわかってきたのは震災の次の日からである。まず驚いたのは翌日の交通渋滞で学校に着くまで3時間半もかかったことであった。学校に着いてからまず担任としてクラスの学生の安否の確認を取ろうとしたが、研究室の電話がまだ使えなかった。そこで学校にいても何もならないと思い、昼過ぎに帰ることにした。やはり帰りもひどい渋滞に巻き込まれ、車の中でひょっとしたらガソリンがなくなるのではないかと心配になったことを覚えている。自宅に戻り電話を使おうとしたが、震災直後はふだん通り使えた自宅の電話が利用できなかった。そこで自宅近くの公衆電話を利用し■■の学生とその家族の安否の確認を行った。クラスの半数の学生はその日に無事を確認できたが、被災状況のひどい地区に住んでいる学生の無事を確認するには1週間程度かかってしまった。後になって■■の学生41人の内、全壊1名、半壊4名ということがわかったが、そのときは安否の確認をとるのが精一杯であった。
 日が経つにつれて震災の詳しい被災状況がわかり、私の住んでいる地区でおにぎりの炊き出しをすることになった。また、それから数日経て神戸高専■■部のOBから被災した■■OB並びに現役部員のために何かできないかという連絡を受け、■■部OB各位に義援金のお願いをした。その結果、36名のOBの方からご協力を得ることができた。
 恥ずかしながらその二つぐらいしか私はボランティア活動ができなかった。いま思えばもっといろんなボランティア活動に参加すべきだったと思う。しかし、近隣の非被災地区に住んでいる人がすばやく何らかのボランティア活動に協力することは正直言って非常に困難であった。このような緊急事態にもかかわらず対応が遅れてしまったことは正確な情報の伝達ができなかったことに尽きると思う。
 前述のようにほとんど何の協力もできなかった私が今思うことは震度が6クラスの地震では情報を待つのではなく、震度6が観測されれば自衛隊や消防などの訓練を受けている団体の出動を義務づけるという震災直後の対策を確立させ、さらにその後時間とともに変わっていく被災地での様々な問題に対応するためのマニュアルをつくること、そしてそれを徹底させることではないかと思う。今回作成される震災記録集が今後のために役立つことを期待したい。

(■■・■■)

□ 神戸市■■区■■

 震災直後、テレビなどで阪神・淡路の親戚や知人の安否確認をしていた方は、上掲の住所『■■』を見て思い出される人がいるかも知れない。NHKの全国放送で、ガスの止っている地域の一つに「■■を除く垂水区全域」と何度も何度も放送された所だ。わずか640戸ほどの■■に我が家があり、■■よりはるかに広域で、多くの人々が住んでいる「名谷」でもガスは出ていたが、NHKの全国放送は単に「須磨区の一部を除く全域」でガスは止っていると放送した。震災後、半年以上がたった今でも、何かで住所をいう時、「ガスが出ていて被害がなかった所でしょう」と言われる。確かに長田区や灘区・東灘区の全焼・全壊の多かった地域に比べれば、被害はないに等しいが、我が家にも4月になり、少し余裕のできた夫が手続きをしてきた一部破損の罹災証明がある。
 地震直後は、学校では担任として学生の安否確認に追われ、家では水汲みに追われる毎日であった。■■ではガスは止らずにすんだが、断水状態であり、あのような放送をするから水道の復旧が最後になるのでは?と、■■の住民はテレビの報道を恨みつつ、いつまでか分からない重い水汲みの毎日を送っていた。幸い10日程度の断水ですんだが、今だから10日程度といえるので、見通しのつかない1日、1日は本当に長く感じられた。
 夫は■■の公務員であるため、震災当日から90ccのバイクに乗って、神戸市の最も西の■■から、須磨区、長田区、兵庫区、中央区、灘区、東灘区、芦屋市、■■、■■と、瓦礫の中を毎日出勤している。バイク通勤は2月末まで続き、避難所での泊りも3日に1日程度あって、事故が無いことを願い、家の水汲みなど当てにはできない。
 水がこんなに大切なものだったことを実感していた時だ。水の使い方をめぐって家中が険悪になる。水洗であるためトイレにも自由にいけない。私が担任として連絡していた時聞いた話に、断水が長く続いた長田区の学生の家では庭に穴を掘ったそうだが、我が家の庭は少しほれば硬い粘土層となり、穴を掘る元気もなかった。同じく断水に長く苦しんだ西宮の学生の母親からはマンホールに簡易トイレを作っていることを聞く。■■でも、もう少し断水が長引けばそうしたであろう。■■には全・半壊した親戚・知人がたくさん避難してきており、いつもより多くの人々が住んでいて、持ち主不明の車が水道復旧の妨げにもなったそうである。
 私はちょうど1年前、■■に入院し、■■手術して、1/17頃は■■病院のテレビで、ロスアンゼルスの大地震をみて、「神戸でこんなことになったらたいへんやね」と、地震を人事と考えていた。阪神大震災が1年前だったらと思うと、またまたゾッとする。なんとなくお腹をかばって運動不足になっていた上に、水汲みをしたため、右足首を捻挫したが、外科などの病院は満員だろうと思い、待たされるのも困るので、サロンパスをはって水汲みをしていた(この時の捻挫の治療に半年後の今も医者に通っており、無理をすると腰まで痛くなる)。
 同居の義母■■に倒れられたら大変と、■■の娘とで水汲みをしていたが、■■は被害が少なかったので1/23(月)頃から娘達の学校が再開され、私一人の仕事となった。義母は  の人で、「戦時中もひどかったけれど、水はいくらでもあった」とこぼす。全自動の洗濯機は水の使用量が多いので手動にしたがうまくいかず、最小限の衣類を私が手洗いする。洗濯が大好きな母は「青菜に塩」のようになり、トイレにいくのも遠慮している。
 いつまで続くか分からない水汲みにイライラが募る。電話が通じ出すと、私の実家のある■■の親戚・友人や近畿・東京方面の友人から安否確認の電話がかかる。水汲みや家と高専の研究室の整理で疲れた時にかかってくる電話はあまり有り難くない。友人は私が教師であることを知っていて夜に電話をくれて、何度も電話してやっとかかったというが、コードレス電話ではない我が家の電話台に何回も出るのは疲れる。電話の中には私のクラスで所在確認の電話を心待ちにしている■■の学生の電話もあるから、出ないわけにはいかない。心配してくれた友人には悪いが、水汲みの最中の正直な気持であった。その友人達はNHKの全国放送を見ており「ガスが出ているくらいなら、大丈夫だろうと思って電話がかからなくてもそれほど心配しなかった」という。NHKの放送は、学生に連絡網を回している時の電話数減少には役立ったと思っていた。
 平成■■子供会の役員だった私は3月の改選時に「震災直後、ガスが出ているなら燃しに行くというイタズラ電話が■■に大分かかった」ことを初めて聞いた。水が出だすと■■自治会や子供会は義援金だけでなくボランティアに行っており、全国から善意の活動が盛んに報じられていた時だったので驚いた。だが、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件・中国人虐殺事件と王希天殺害事件のような残虐事件はなく、「ボランティア」が普通の言葉になったことは大きな前進であろう。
 今回の震災のような非常時の見舞いには電話よりハガキがありがたい。大正生まれの方から2通のハガキの見舞い状をいただいた。1通は実家の遠い親戚にあたる人が、■■より1/17(火)に投函したもので「災害お見舞申し上げます。テレビでの御地の被害の甚大さにびっくりして、とりあえず急ぎ電話を致しましたが通じず、次々と広がる報道に御地の辺りを思い浮かべて案じております。電気、ガス、水道も止っているとか、さぞ大変なこととお察しいたします。どうか御無事でありますようお祈り申し上げます。」とあり、1/23(月)には届いた。断水中だったがハガキであれば自分の都合の良いときに相手に電話ができる。もう1通は■■先生で、■■才で昨年退職されるまで本校4年の■■の非常勤講師としてお世話になった。■■に住まわれ、神戸の様子がある程度分かった1/27(金)の午後に投函され、1/30(木)に着いた。無事なことをお電話すると、本校の■■の非常勤講師・■■先生は、長田区で自宅が全壊となり洋服ダンスの下敷きになったが、観音開きのため、洋服ダンスの中にスッポリ入って助かって、垂水区の友人宅に居られることがわかり、捜しておられた■■先生と初めて連絡がついた。
 実家から3キロまでなら郵便で送れるから何がいいかと電話があったので「水を入れられる容器を捜して送って」と言って待っていた。その郵便物がまだ着いていない1/26(木)の夜中、水が出始めた。その時の感激は忘れられない。また、いつ止るかわからないので、ありったけの容器に水を入れ、アルミホイルをしいていた食器を久々に洗い、洗濯、果ては洗面所やトイレの掃除を深夜までしていた。1/25(水)の職員会議で1/30(月)学生の登校、1/31(火)10時より30分授業実施が決められた。こんな時に授業をやるより、余力のある4年以下の学生はボランティアに行き、単位を認めた方が良いと思ったが仕方がない。学生の登校前に断水が解けて本当によかった。被災学生の気持を考えられる余裕が持てた。
 ふと、27年前の■■大学の紛争を思い出した。■■部は早くから授業を再開したが、■■部は最後までストをやっていた。レポートで進級した団塊の世代である。私の青春は、倒壊が一番激しかった東灘区・灘区・三宮にあった。震災まで私は■■であると思っていたが、神戸人であることを知った。

(■■・神戸市■■)

□ 困った職業病

 早朝、いきなり『どーん・ぐらぐら』ときて、寝入っていた私は一瞬何が何だか分からなかった。次の瞬間、天地のひっくり返る程の大きいのがやってきた。「ワッこの地震は近い」と直感した。別の部屋にいる娘の金切り声、大声で家族の安否を確かめた。外はまだ暗かったが飛出した人達のざわめきが聞こえていた。私は戦時中の空襲警報発令で飛び起きたあの興奮を感じながら、次の揺れではわが家の振動周期を空で数えていた。3〜4Hz位あり、プレハブの家はわりあい剛だなと思った。
 連日、テレビ・新聞で建物や橋のむざんな姿が報道されたが、どうしても自分の目で見ておきたいと思った。私の家は名谷であるが1月末には板宿まで地下鉄がとおり、そこから東にもバスが出ていたので行ける所まで行くことにした。4日間連日、三宮、灘、御影、摩耶埠頭、ポートアイランドなどを歩いた。学生にも見せておきたいと思ったので一日は卒研生のM君を連れて歩いた。
 私は橋、特に鋼橋を専門にする構造屋であるが、到る処でこれらのむざんな光景を目にして息をのんだ。鋼製円柱のちょうちん座屈や象の足型座屈、連続箱桁橋の座屈など理論的には分かっても実験室の模型実験でさえこれほどきれいにできないことが目の前に実在しているのである。摩耶大橋近くの大きな鋼製ラーメン橋脚がみごとにぜい性破壊をしていた。じん性(ねばり)のある鋼がかくなるとは、とわが目を疑う程の衝撃であった。鉄筋コンクリート製の橋脚、特に一本脚の橋脚はコンクリート断面がざくろのように開いて砕け、鉄筋はちぎれあるいは折れ曲り、あまりにも悲惨な姿であった。
 この地震の特徴は、何といってもまずその地震力のすさまじさである。直下型地震の特性として水平動と上下動がほぼ同時にやってきて、最初の3波位の僅か数秒間にエネルギーを集中して殆んどの建物を崩壊させてしまった。構造物の設計に際し、地震の強さを通常は加速度の大きさで表現するが、この地震は加速度も大きかったがそれ以上に速度波が過去に例のない程大きかったことが特筆される。しかも卓越周期が1秒前後と構造物に影響の大きい領域であったことが大被害につながったと考えられる。
 この地震動の特徴を地盤との関連において詳しく分析し、今後の耐震設計に反映させることが最も基本的に重要なことである。
 この地震では構造物の完全崩壊があまりにも多過ぎた。耐震性で重要なことは崩壊してしまわないねばりである。ねばりは材料的あるいは部材断面のねばり強さだけでなく構造システムとしてのねばり、リダンダンシー(余裕度、冗長度)を高めることによって増加する。橋脚では一本脚より門型などの複数の橋脚にして、部分的に破壊しても全体が崩壊しないフェールセーフを目指すべきである。さらに、今後の構造物の方向を考える時、これまでの地震にがんばりぬく耐力設計の考え方から地震力を構造物に入れない免震設計や振動エネルギーを構造本体以外のものに吸収させる制振設計を取り入れるようにすべきである。
 いま、耐震設計のあり方について、学会をあげて取組んでおられる。きっといい成果が上げられると信じている。私としては、本校学生諸君にこの生々しい震災の現実と耐震設計の在り方を正しく伝えていくことが一番大切だと思っている。地震は必ずまたやって来るのだから。

(都市工学科 ■■・神戸市須磨区)

□ 建築相談ボランティア

 ここ神戸で、思いもよらず大きな地震に遭遇。布団の中で揺すぶられ、まだ寝ぼけた頭で、”家がつぶれる”と思っている内に、完全に眼がさめ、起きあがったときには地震もおさまっていた。幸いにもわが家の被害は軽微で、わが家の周囲も何事もないように静かであったので、停電中ではあったが、普段どおりの1日をスタートしようとしていた。その内、県外からの電話で、神戸は大変なことになっているぞと教えられ、ラジオはどこだ、電池はどこだとあわてて探したようなていたらくであった。
 神戸のいずれの機関も同様であるが、当時、私の勤務していた会社でも、まず社員の安否と被害の確認が急務であり、当面会社は休業、私は電話連絡のみの毎日であった。自宅で毎日緊急車両のサイレンの音を聞いていると、どこか落ちつかず、何かしなければならないのでは、との思いが強くなった。そんなときにテレビで建築相談ボランティアの募集のお知らせがあり、建築士が足りないとのことで、早速、市に勤務する友人を通してボランティアを申し込み、主に休日に相談依頼者を回ることになった。相談依頼は電話で市の窓口にあり、依頼者氏名・住所・連絡先・相談内容などの記入用紙が作成されてその用紙がボランティアに渡される。その役割は、倒壊してしまった家屋についてでなく、破損した家、まだなんとか立っている家についてどうしたら良いか修理その他のアドバイスをしてあげることであったので、建築相談ボランティアは依頼者と一緒に被災家屋を実際に検分し、破損の程度や安全性について相談を受けるとのことであった。私は神戸市の西側の相談を担当し、その多くは板宿近辺であった。小学校に避難している依頼者も多々おられ、教室に訪ねなければ連絡がつかない場合や遠く他市に避難しており、出てくるのに時間が掛かる人もいた。■■小学校には依頼者を訪ね、何度も出かけた。てきぱきと手際よく処理するというわけにもいかず、1日に3〜4件の相談を受けるのが限度であった。腕に腕章を巻き、地図と相談依頼用紙を持って被災地を回っていると、依頼者の周囲の人や通りがかりの人からも是非わが家を見てくれとの依頼が寄せられ、これでは際限がないのではとの懼れも抱いたが、混乱の中、藁にもすがる思いの被災者の心情を思い、寄せられた依頼にはほぼ全て対応してきたつもりである。ただ被害認定と混同して、ほとんど被災してない人からの相談もいくつか混じっていて面食らうこともあった。
 比較的年若い住人は痛んだ家を建て替える決断を容易にするのであるが、老人の場合、崖の縁の家が傾き危険であっても、修理や立て替えの資力も気力もないようで、老後の生活設計が狂い途方にくれているようすであった。
 今回の震災では、避難所等で多くのボランティアが活躍し、また避難所となった学校の教職員や市関係者が不眠不休で働いたことは広く知られており、それに比べれば私のできたことは極く少ない。被災地を回った、ボランティアにも参加した、との自己満足にすぎないのでは、と自問自答しながらも、神戸市の方から助かりましたと言われ、その危惧も必要ないようだと良いほうに考えて、それほど長い期間でなかったがボランティアを続けた。

(都市工学科 ■■・神戸市西区)

□ 無我夢中の3ヶ月

 今、私の手元に1〜4月の教務予定表が2枚ある。そのうちの1枚は12/25の日付があり、もう1枚は1/24の日付があり、(案)になっている。そして1/24のものには無数の書き込みがある。数カ月ぶりにこの2枚の予定表を眺めていると,様々な思いが湧いてくる。
 震災当日、少し遅れて学校に様子を見に行った。教務主事室は、主事があらかた片付けて下さっていたので、それほどひどい状態ではなかった。とりあえず、今日は授業は無理だから、明日のことは交通機関の状態で決めようということになった。
 翌日にはこれではしばらく授業は無理だから今週いっぱいは臨時休校だと決まった。
 木曜日、金曜日と情勢がだんだんはっきりしてくるに従い、これは大事だという感じがひしひしと強くなってきた。とりあえず、次の週までの臨時休校を決めたが、いつ授業が再開できるかも分からないままに、5年の後期末考査、それに入試の日程を決めないといけない。5年はレポート試験にすることが決まった。金曜日に推薦入試を書類選考のみにすることと、学力入試の繰り下げが決まった。すぐに関係機関への案内文の作成、実施に向けての検討が始まった。複数の検査場所という案も出たが、実施が難しく消えた。
 土曜日、日曜日は、主な行事の日程のめどを立ててみるため、行事予定の変更で暮れた。授業の再開のめどもつかない状況だから、不確定要素だらけで、どうしようもない部分が多いが、とにかく年度中に全ての行事が終わるという案を組んでみた。二次の進級認定会議が1週間のびて3月29日になるというぎりぎりの日程である。
 1/24(火)には、主事室のメンバーもほぼ出そろい、行事予定案を元に、細部の詰めをしていった。
 1/25(水)には、教職員会議が開かれ、ここで1月末からの授業再開、学校内の宿泊施設の確保などが話し合われた。1月末からの授業再開には危ぶむ声もあったが、来れない学生への配慮を前提に了承された。
 この週にほぼ、主な行事の日程が決定されたが、授業再開にしても短縮をどうするか、推薦入試の実施の具体案は、といった問題が次々と起こり、しかも日毎に状況が変わる毎日だった。
 次の週は、学生の安否確認の後、30分の短縮授業を開始して、ようやく学生の姿のある学校に戻った。といっても30分授業ではほとんど進めず、しかも来れない学生が多いからその配慮もしないといけないので、半分は繰り返しといった状況だった。心配された水の確保の問題もほとんど障害はなかったが、いろいろな問題が次から次へと起こった。例えば、学力入試の時には会場のすぐそばの学校内の宿泊施設を一時閉鎖したいという教務主事室の案に学生主事室が反発して、激論になったことなど、今から思うと懐かしいこともあった。
 2月の教務委員会で、時間割作成に各科の教務委員が積極的に参加してくれることになった。この週には、推薦入試の準備、4年以下の試験時間割作成、5年の出欠チェックの準備、来年度の授業時間割の準備と本格的に仕事が並行して走り出した。
 入試は、受検者数が最大の問題点だった。推薦の枠は拡大したが、かなり受験者が減ることが予想された。追い打ちをかけるように、学力入試の日が県内の私立高校の入試日と重なることになった。ところが、うれしい誤算で、昨年度より受験者が増え、2/10に最終的な実施案が固まった。  翌週からその次の週あたりが1つのピークだった。学力入試関連と、5年の成績処理、授業時間割の作成が次から次へと入ってきて、朝から晩まで主事室に入り浸っていた。教務の仕事の合間に授業に行く感じだった。
 3月になっても、5年の卒業認定関連,授業時間割作成、4年以下の期末考査と続く。入試関連も終わっているはずが、他校と日程がずれた事による辞退者が出て合格発表後も終わらない。授業時間割作成では、翌日に申し送りができていないことなどがあったり、コマがどこへいったか分からない、といったハプニングもあった。もうできているはずと思って公表して、それからもう一度大幅に組み直すといった事もあった。
 私は、この年度で教務主事補佐を降りることになっていたので、何とか3月いっぱいで仕事を終わるつもりだったが、やはり、出席簿関連の引継、共同研究の学生の成績関連のデータベース作成等を4月の初めまで持ち越してしまった。今、思い返してみると、無我夢中の3カ月だった。

(一般科 ■■・神戸市西区)

9.1.4 震災に学ぶ

□ 情熱を…

 突然、夜、電話が鳴った。『震災の調査に神戸に行くから』。私の卒業した■■大学の■■先生からであった。先生は、都市の計画が御専門で、西神戸の方面を案内してほしいという用件であった。少し自信はなかったが、お引き受けすることにし、自分なりに独自に準備をすることとした。
 それは不断から進めている新聞の切り抜きをまとめることであった。アーバンリゾート93の頃から、街づくりに関する興味のある記事は残しておき、各ファイルボックスに格納後整理する。カテゴリーをつける。或はストーリーをつける。そんな事を色々な角度からしていると、街の様子や生活する人々の自然な姿に対する自分なりの視点が集まったものとして表れる。その全体像をゆっくりと眺めると、色々な事柄に対する意見が素直にまとまるような気がする。私なりの都市計画・ニュースペーパー構築活用法である。都市計画は法的な規制や制度も重要な視点であるが、地域住民の意識の動向が最も大事な事といつも思う。■■先生が神戸に来られるまでに、資料の準備としてできればと、震災前の状況などいくらかまとめてみようと思った。
 仕事にはならない中途半端なものになる事はわかっていたが、自分も神戸を思っている一人でありたい。そんな気持ちがなぜか勝手に行動を決めていた。実際には風邪を引いて思いばかりが先行し、時間ばかりが過ぎた。
 調査当日、先生、■■研究所の■■さんと私は、震災後、初めて板宿の街に入った。目に入ってきた光景は想像以上の考えられないものだった。ビルは崩れ、街は焼け、戦争を経験しない私には、戦後の街の姿をいやでも教えられたような気がした。
 東灘の御影に先生の学生時代のお友達の■■さんという方が居られるということで、御訪ねした。御会いできたその御婦人は、震災に遭われたというのに、堂々と私たちを迎えてくださった。この堂々というところが神戸だと思った。上品な本当に神戸らしい人だなと第一印象を強く思った。震災での出来事を語られる中にも、地震は来たけれども、この街が大好き、この街と暮らしてこられた自信と誇りと明るさを本当に感じた。リュックを背負って歩き回っていた我々は逆に元気づけられている様な思いであった。道をお訪ねした人も、屋根を修理されていた方も、レンガの塀の後始末をしておられた方も、なぜか神戸の人は元気なのに驚いた。
 神戸の街への思い、こだわり、愛情、この大きさがもし測定できたなら、他のどんな街にもきっと負けないと思う。
 今回の震災を通して、多くの人が大変な御苦労をされたことは言うまでもない。自分も諸機関を通じて、冬服等の物資支援に協力はしたが、後で自分の震災後の行動を冷静に振り返ってみると、なぜ、もっと積極的に体が動かないのだろうと溜息の連続である。
 自分自身が直面している課題の多くについても、もしかしたら、いつも一番欠けているのは、例えば、3日間、足の裏に豆を一杯作りながら、一緒に歩いてくださった先生の情熱のような姿勢ではないのか。本当に恥ずかしい思いである。
 積極的に生きる力、これは街が決して与えてくれるものではなくて、もしかしたら、街に与えるものかもしれない。
 その時に街はもっと素敵な街に生まれ変わるのだと考えるようになった。
 『まず、自ら動く』。自分自身の中にも存在する、素敵な街への思いを大きくするにはもう一度自分の今までの生き方を反省し、今度地震が来た時には真っ向から対決できる覚悟で望むことができるよう、今後の準備に取り組みたい。

(都市工学科 ■■・神戸市西区)

□ 備えあれば

 平成7年1月17日午前5時46分、突然の激しい揺れに目を覚ますと、箪笥の上に置いてあった物が布団の上に落ちていた。家族が無事である事を確認して外に出、隣家の屋根の日本瓦が落ちているのを見、わが家の壁に亀裂が入っているのに気付いたが、その時は、市街地が未曾有の大震災に見舞われているとは夢にも思わなかった。情報が欲しかったが、停電で、ラジオの電池も見つからず、日頃の備えの悪さを感じた。電話も繋がらない。そのうち、テレビがつき、交通機関がすべて駄目と分かり、徒歩で出勤せざるを得ない。せめてバイクか自転車を持っているべきであった。ひたすら有馬街道を南下した。平野あたりから地震の凄まじさを感じ、緊張した。途中で聞いた「ガスが漏れています。車を止めて」と叫ぶ女性の声が今でも耳に残っている。
 3月まで人事委員会事務局の仲間と一緒に長田・兵庫区内の避難所や区の応援に出向く日々が多かった。業務の遂行は俄マニュアルで混乱や戸惑いがしばしばであったが、これもある程度、現場で臨機応変に対応することでカバーできたのではないか。又、情報の伝達が必ずしも市民にとって分かりやすいものとなっていただろうか。例えば期限・期間を示す言葉として「当分の間」が使われたが、この言葉は、便利ではあるが、曖昧さを伴うので、表現を工夫する必要がある。また、最も不安を感じたのは先の見えないことであった。目標は明確であり、いずれ何らかの方法で解決が図られるのであるが、その時期とプロセスが見えてこない。これらの事を早い時期に確実なものとして示すことは至難の業である。必ず解決されると信じて協力し、また、慌てること無く待つ姿勢が大切である。
 人の親切を感じた。国内は勿論、海外からも多大の援助や支援を頂いた。ボランティアの方、自衛隊の方、各団体の方が昼夜を問わず、献身的な活躍をされ、感動を覚え、人と人の触れ合い、思いやりを行動で示す必要性を痛感した。特に、ボランティアの存在と行動力には目を見張るものがあり、これまでの呼びかけに応じて参加し、言われたことをする行動から自発的・能動的且つ自律的な行動としての展開となり、その規模が大きかった。これからの時代の大きな社会的エネルギーとなるのがボランティアであり、まさにボランティア元年の幕開けである。
 4月から高専配属となり、学園都市に通う毎日となった。校舎は体育館の天井や学科棟の繋ぎ部分等に破損があった程度で、街は震災前とほとんど変わりが無いようであり、複雑な気持ちであった。しかし、教職員や学生の一部に被災された方がおられ、心が痛みます。一日も早い復旧を念願しております。又、学生にとっては、落ちついて勉学できる環境が大切であると感じ、そのために努力したいと思っている。
 この震災で受けた惨事を繰り返さないために、安全な街造りが図られようとしており、その実現にみんなが智恵と力を出し合っていくことが大切である。また、私もこの震災を通して学んだ事を心に刻み、役立てたい。備え有れば憂い無しとしたいものである。
 最後になりましたが、被災された方々に心からお見舞い申し上げますとともに、一日も早く元の生活に戻られますようご祈念申し上げます。

(■■・神戸市北区)

□ 教師失格

 須磨区北部の自宅はほとんど被害がなく、揺れの感じから震源地は極々近いと思った私は、「震源地は淡路島で死者2人ほど出ている模様」とか「JR山陽線は全線不通」といったラジオの声に、今日は休校だなと思っただけ。念のため神戸市内に住んでいる親類の安否を確認したところ、東灘で一人暮らしの妹だけ連絡がつかなかったが、淡路からは離れているから大丈夫だろうと思いながら夜の明けるのを待った。9時過ぎに電気が通じテレビを見て初めて阪神間に相当の被害が出ていることがわかり、改めて妹に電話しようとしたが、我が家の電話は不通になっていた。どうすることもできぬまま、余震におびえる妻や子どもたちに大丈夫、大丈夫と言いながら、テレビの前に釘付けのようになって一日を過ごした。翌日になってから我が家の水が出なくなったため、とんでもない大地震が神戸・阪神をおそったのだということがひしひしと感じられ、妻はパニック状態。妹のことも心配だが、どうすることもできない。この間、学校の事、学生の事は私の頭からまったく消えていた。2日目の夕方、妹が無事であることがわかった後、初めて学生の安否が気になったが、電話はほとんど通じない。
 3日目の早朝、前日の夕方から動き出した地下鉄で板宿まで出て、全壊している多数の木造家屋やビルを目の前にしたとき、テレビの画面からは感じられなかった「大地震」のすごさにショックを受けた。これはえらいことだと思ったが何をどうしてよいかわからない。とりあえず、妻が作った味噌汁とおにぎりを救援活動をしている所へ届けた。震災4カ月後、民医連の医師や看護婦が、肉親に死者が出ていながらも、数日間ほとんど一睡もせずに救急活動をしたとの記録集を読んで、震災後の私の行動は、教師としてまったく失格ではなかったかとの思いにかられている。

(■■・神戸市須磨区)

□ 心のすきま風

 ことのほか残暑の厳しい平成7年8月下旬、所用があって九州へ旅行した。大分から久留米を経由して福岡への車窓からのどかな田園風景の中に点在する家を一軒一軒眺めながら「あの家は全壊」「この家は多分半壊かな」と勝手にランクづけをしていた。また、福岡市や北九州市の都心部を歩きながら「あのビルは大丈夫だろうか?」と神戸・三宮界隈の地震後の風景とダブらせながら眺めている自分に気がついた。やはりあの阪神大震災の生々しい記憶が私の脳裏に強烈にインプットされてしまったせいらしい。
 長田区■■の自宅は倒壊こそまぬがれたものの「全壊」の判定を受け、居住不能の状態になってしまった。そこで近くの小学校での避難所生活を経験する。毎日小学校から高専へ通勤するという奇妙な生活が約40日も続いた。小学校からは壊れた家の前や傾いたビルの側を通り、焼け跡を通り抜けて約20分、地下鉄板宿駅まで歩く。総合運動公園駅で電車を降り、震災はどこであったのかと思うような、なにごともなかったような、いつもと変わらぬ風景を横目で見ながら約15分、高専まで歩く。それはライフラインの断たれた町と繋がっている普通の町、救援物資に頼りながら生活する町と自由に買い物が楽しめる町との両極端を往復する毎日であった。
 人々の会話は当然震災のことが話題になる。しかし、お互いの会話の中で微妙なずれに気がついて愕然となることがある。微妙な経験の差でお互いの心にすきま風が通り抜ける。
 一般的に避難所の生活は不自由で悲惨で苦しいはずである。しかし、避難所に戻ってほっとすることもあるから不思議である。避難所での連帯感は同じ境遇を共有しているためであろう。そして早く普通の生活を取り戻したいと共通の願いをもっていたからでもある。
 われわれはどこかでなにか大きな事件、事変があると、にわか評論家になって、無責任な批判、批評それに「ああすればいいのに」「こうすればいいのに」と無責任な指示めいたことをいう。しかしこれは当事者にとっては腹立たしいだけであり、心に傷をつけるだけである……ということに今回の震災を経験して気がつき反省しているところである。

(■■・神戸市長田区)

□ せつなさよ

 2週間後の2月初旬、恩師の告別式に参列するため金沢市に向かった。
 須磨駅を過ぎるあたりから窓外の情景は電車の進行とともに暗欝さを加え、新長田駅の辺りで目にした赤茶けた瓦礫の世界は、まさに無惨としか言いようがなかった。
 神戸駅で阪神電車に乗り替え、今にもガラスの雨が降ってきそうな新聞会館の横を小走りに通り抜けて代替バスに乗り込んだ。
 車内では誰もが黙り込んで、普段なら見上げるはずの軒先を左右の窓下に見下ろしながら、移り行く窓外の景に目を走らせていた。
 芦屋駅で再びJRに乗り、大阪駅に到着すると、そこはうそのような日常の世界。人々はいつもの足取りで歩き、しゃべっていた。
 特急雷鳥が湖西線に入り、比良山の麓にさしかかる頃、にわかに灰色の空と変わり、やがて真っ白な雪を屋根に載せた家々が目に飛び込んで来た。それは、つい先ほど見て来た青いビニールシートで覆われた阪神間の家々の姿とはあまりにも対照的で、別の世界に迷い込んだような奇妙な感覚を持った。
 金沢は雪。同じく歩きにくい道であっても、神戸の亀裂と凹凸を生じた道路とはまさに雲泥の差で、情趣を感じさせる雪道だった。その夜、震災後初めて入浴した。
 帰路は夜。ネオンがまばゆい大阪の街を通過して武庫川の鉄橋を渡った辺りから窓外の光がしだいにさびしくなった。
 芦屋駅の駅前仮設トイレは汚水を歩道に流し、臭気が辺りに立ちこめていたが誰も気にすることなく、整理員の懐中電灯の明かりに誘導されてバスに乗り込んだ。
 43号線は交通規制する警察官が随所で赤色と蛍光色を発する棒を振り、笛を鳴らすが空席ばかり目立つ代替バスは遅々として進まず、いたずらに時を費やしていた。
 再び三たび電車を乗り替え、新長田駅にさしかかる頃、昼間見た赤茶けた世界は今度は暗黒の世界と化し、余震に怯えぐせのついた心の不安感を一層つのらせたのであった。
 一日、全壊と認定された長田区にある知人の家を訪ねた。
 当面は姫路に疎開しているが全国の泥棒が神戸に来ているという噂もあるので、用心のため一日おきに通って来ているのだ、と話し、被災時の様子を淡々と説明されていた。
 三ケ月後、被災地での嘱目吟がNHK俳壇で放映されたと、喜びの音信を寄せられ、文末に被災後のことを詠んだ、

「激震に死の街と化す寒の夜
 街は闇焚火とすごす地震の夜
 避難所の一隅古き雛かざる」

などの句が書き連ねてあった。
 「無辜(むこ)の民」という言葉がある。
 山ほどの怒り・恨みを、誰にもぶっつけられないせつなさを、せめて自己の生涯における記念に代えて遺そうと、今日も苦吟されているのであろう。

(■■・神戸市垂水区)

□ 不可抗のものか

 「えっと、ここは高齢者でも入れますかね。連帯保証人2人つけるようにしますし。」「あ、それはダメです。高齢者だけでしょ。いま仮設住宅の孤独死などが新聞にも出ているわけで、それは無理です。家主さんの承諾取れませんよ。」これは先日、賃貸不動産屋さんと私が交わした会話の一部である。彼の話では、まともな家主さんは年金受給世帯には貸さないのが原則だそうで、震災前の需給が緩い時でさえ敬遠していたのに、まして今の状況では、というわけである。正直な物言いをする人であった。対応は異なっても交渉の結果は、どこでも同じだ。今後、復興計画により建設される民間優良賃貸住宅の家主さんが、皆“まとも”であったら、どのような事態が現出するのだろう。
 あの朝、揺れが収まった時、半年後に、このような状態に頭を悩ますなどとは思いもよらなかった。あの時、私は暗闇の中で、四つん這いのまま、揺れの現実離れした感覚に笑ってしまったことを覚えている。家が傾いたことに気づいた時、その笑いは凍った。あの晩、倒壊家屋によって道が迷路のようになり、ガスの匂いのする闇にくずれた屋根が低く踞る家の中で、電話の呼び出し音が鳴り続けていたことや、翌日から西宮北口や甲子園口の駅へ向かって続いた避難民の列にも、自分が異常事態の中にいることを思い知らされた。震災後、2月の初めにようやく職場へ復帰し、3月半ばまで合宿施設に泊まらせていただいた。その間、10人近い高専の先生方や旧友に自宅に泊めていただいたり、お風呂を貰ったりした。いろいろお気遣いいただいたことどもに至れば、枚挙の暇がない。何週間にもわたる人情の暖かみを感じることができたのは、異常事態の中での喜びであった。
 ただ、震災後の生活が“異常”であったかどうかについては、注釈が要る。むしろ日常の裏返しというか、日常生活のデフォルメされた延長のようにも思えるのである。たとえば避難所には、犬が人の横に寝ていたが、愛犬家の家族にとってはそれは日常の延長であった。翌日、避難所からクルマで大阪方面へ通勤する人々があったのは、今なら緊急車両のために道路を確保すべき等々勿体ぶった批評もできようが、それは日本の企業社会の延長でもあった。残された人々は水洗トイレ用の水を3階まで汲み上げたり、西宮市役所へ情報収集に出掛けたりした。女性、子供、老人が“家庭”の仕事に従事したわけである。これもいつもと同じだ。一旦この「異常な日常」に組み込まれれば、その回転を円滑にすることが緊要であって、かつての日常は遠い世界のように思われる。しかし、それも日常の矛盾が強調された姿ではなかったのか。
 震災の教訓がいろいろな場所で今、取り沙汰されている。その際、「あの異常な状態を早くまとめてしまいたい」という欲求を間々感じることがある。ただ本当に必要なのはむしろ異常事態ではなく、この日常の生活の、この社会の性格の点検だろう。関東大震災後、その調査・研究にあたった寺田寅彦はその10年後に、「災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものである」と言い、楽観的な防災論に一抹の懐疑を表明している(「災難雑考」『寺田虎彦随筆集第5巻』岩波文庫)。日常は個々まちまちで、状況の影響を蒙りやすい。ただ時に矛盾するような個々の日常と結びつかない時、その教訓・原則は杓子定規なものにならざるを得ないだろう。原則が形成される際に、切り落とされてしまいがちな個々の日常の感覚から出発する方法はないものだろうか。少なくともそれはむやみに教訓化を急ぐことからは遠いのではないかと思われる。

(■■・西宮市)

□ 提言「甦る神戸の街づくり」

T.まえがき

 平成七年一月十七日、唐突な大地震の自然の猛威・悪夢の到来は、多くの先人達が長い年月をかけて今日まで築いてきた殻(資産)を一瞬にして地獄の底へ叩き落としてしまった。被災地・神戸の私たちは物、心、体ともに大きな犠牲を払い、そして全国にフアッション・観光産業など様々な斬新さを誇るエキゾチックな“百万都市神戸の街”は壊滅したと言っても過言ではないように思える。
 今回の大地震で親兄弟、肉親を失った人、親しい友人を無くした人、家が全焼したり全壊した人・・・これらの人々の気持ちは、いくらマスコミ論者が雄弁に語っても、その心情は語りつくせないであろう。大震災の洗礼を受けた人、平和な穏やかな日常生活を引き裂かれた人のみが自然の猛威に対して畏怖の念と世の無常を抱くものである。
 これらの大震災の洗礼を受けた私たちには、一体何が残ったのであろうか。これからの神戸の街づくりには、何をどうなすべきかを考えてみることにする。

U.東洋人の自然観

 わが国の基礎自然科学は西洋で百年かかったことをわずか明治の初期20年で身につけている。今日の日本の国が築かれているのも神戸の街の発展も同様で西洋文明に追随したものである。最近でこそ神戸の都市計画や文化も神戸特有の自然“海と山”の風土を生かした街づくりが提唱されているが、今日までの街づくりの根底に流れてきた精神は、やはり西洋文明の自然観であり、そして今日の神戸の街が築き上げられたのである。“神は人をつくり給うたが、オランダ人は土地を作った”と自負するオランダ人の言葉はまさに西洋の自然に対する考え方である。自然を征服する心がなければ自然科学は究められない。人間は自然より優位にあるという考え方である。一方、日本は国土も人間も自然の命も、皆同一の二つの神(伊佐那岐命、伊佐那美命)から生まれたことになっている。花鳥風月は兄弟であり、友である。一生懸命に生きていれば自然と共存しうるという考え方。自然の摂理を考慮した有名な武田信玄の“信玄堤・霞堤”は、東洋人の自然観で作られたものである。自然というものは、人間の手によって征服してしまうと考えるのは、元来日本人の考えではないのである。

V.これからの神戸の街づくり

 今回の震災で全国他府県からの誘いがあっても、神戸の人々は焼け跡に踏みとどまり、がれきの中から、地元神戸から再生したいと願う人ばかりである。それは、やはり六甲の山と青い海に深い愛着があるからだこそである。厳しい自然に対峙しても、美しい六甲の山並み、慈母なる海に囲まれた神戸の自然に底知れぬ不思議な魅力を感じているのである。大震災の洗礼を受けた私たち百五十万市民一人一人は、自然の猛威に対して畏敬の念を抱くと共にこれからの新しい街づくりの精神が叩き込まれたのである。ライフラインの“水”を一つ取り上げても、飲み水で洗濯をし、風呂に入り、トイレを流す豊かさ。そんな有り難さと水の大切さを心底、肌で身に沁みて感じる貴重な経験をすることができた。また全国各地からのボランティアの救援活動など、この地震が与えてくれた“人間本来の姿”も私たちは深く印象に残っている。
 菊地寛の小説「恩讐の彼方に」、自分の父を殺された青年が親の仇である了海と共に二十一年の歳月をかけて“青の洞門”を完成させる話。月日が立ち、最後の一槌で光が差し込み、その向こうに山国川が見えた。敵を打つなどというよりも、このか弱い人間の両腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激で青年は、老僧(了海)と涙でむせび合ったという小説である。
 これからの神戸の街づくりは、私たち市民ひとりひとりがそのプランナーである。それはこの地震でその素地を十分に兼ね備えた貴重な経験や知識がある。そして、親の仇である自然と共存して、神戸の自然風土に根ざした街づくりであること。六甲の眩い緑と人間の故郷といわれる海を生かした技法“東洋人の自然観”でこれからの神戸の街づくりを期待するものである。

(都市工学科 ■■・神戸市西区)


 □ 教 訓

(応用化学科 ■■・神戸市灘区)
  • 教訓1 夜寝るとき、横にタンスや本棚など倒れるもののないこと。照明器具の真下には寝ないこと。落ちてきます。
  • 教訓2 懐中電灯は固定していないと移動しており、在処がわかりません。その点、ポケットラジオと眼鏡は軽いのでそのまま動かずに元の位置にありました。
  • 教訓3 ガラス破片。予想以上にガラスの破片だらけとなります。靴をはいて室内を歩かなければなりませんでした。
  • 教訓4 大小便。水洗トイレが何日も使用できなくなりますので、恥ずかしがらずに外でできるように努力しなければなりませんでした。ここに書く訳にはいきませんが、本当に苦しかったです。
  • 教訓5 水。とにかく水が無くて困りました。
  • 教訓6 火。これも絶望的でした。
  • 教訓7 電話。公衆電話に並びました。


9.2 学生による手記

9.2.1 そのとき、私は…

□ 恐 怖

 地響きはほとんど聞き取れなかった。 最初の、 下からの突き上げるような縦揺れで完全に目を覚ました。 縦揺れがおさまるのを待たずに次の横揺れが来た。 とても地震だとは思えなかった。 母は、 この世の終わりだと観念したらしいが、 僕はもうそれどころではなく、 まさにパニックだった。
 揺れがおさまるまでどれくらいだったか、 とにかく布団の中で丸くなっていた。 もの凄い恐怖だった。
 やっと揺れが治まってベッドから飛び降りた。 この恰好では外に出られないと思い近くにあった服を無造作に着て部屋を出ようとした。 しかし、 ふすまを開けると、 足元に玄関の戸棚などから落ちた物が乱入してきた。 その中から自転車のライトを見つけだして玄関を照らした僕は、 再びこれが只事ではないことを実感した。 僕の部屋では机やロッカーが倒れ、 玄関では下駄箱が僕らの脱出を阻もうとするように出口を塞ぐ形で倒れていたのである。 それらの障害物を押し退けてようやく家から脱出し、 近くの公園まで駆け出した僕らが見たのは、 公園から家越しに見える薄赤い空だった。 その後間もなく夜明けとなり、 明るくなって来たので、 一度家に入った。すぐ自分の部屋に入り、 ラジオを探して、ラジオの無事を確かめてすぐポケットにしまった。    10時頃だったか、 電気が復旧し、 テレビをつけると、 丁度阪神電鉄の大石車庫から中継をしていた。 完全に崩れた車庫のぐにゃぐにゃに曲がってしまったレールの上で重なり合うように倒れている電車の様子を見て取ることができた。
 1日目、 近くの小学校のプールから水を引くポンプの音は勇ましくても、 未明からの火事は2日間鎮火せず、 家と道路を挟んだ南の街を焼け野原にしてしまった。 400〜500メートル四方の街が焼け野原になるのを阻止するために訪れた消防車は、 夕方までに小さなポンプ車1台だった。
 その日は一晩中ヘリのエンジン音と余震に脅えて、 朝までほとんど一睡もできなかった。 「恐怖」 1月17日を思い出して僕の頭に浮かぶのは、 まさにこの一語のみである。

(機械工学科2年 ■■・神戸市兵庫区)

□ 生きているよ

 その時私は、いつものように熟睡していた。地震が起こった瞬間も何も気が付かなかった。しかし誰かにゆっくりと揺すられている程度に感じていたものが、だんだんと勢いを増し、今までに感じた事のない揺れへと変化した。私は布団で身を包み、思わず「うわぁー」と叫んだ。揺れが収まった事を確認するとあわてて布団から出て、家族3人が無事であることを確かめあった。
 テレビをつけ、地震情報を必死になって見ていた。しかし、一向に神戸の震度が表示されず、街の映像も出てこない。何がどうなってしまったのかわからない状態であったが、明石市や神戸市に住んでいる親戚に電話をかけ皆が無事であることを確認した。しかし東灘区に住んでいた祖母とは連絡がとれなかった。そのうち、神戸・三宮周辺の映像が流れてきて、ますます消息が心配になってきたが、その時、電話がかかってきて、「生きているから心配ない」と祖母からの連絡があり、一安心した。

(平成6年度機械工学科卒業生 ■■・高砂市)

□ あの時も受験勉強

 「この道、あんなに見にくかったのにねぇ。」と母が言った。
 1月17日、 あの時私は起きていました。 受験生だったということもあり、私は明日に控えた定期テストのため、机上のライト一つを付けただけの薄暗い部屋で一人机に向かっていたのです。 外はまだ真っ暗でした。 時計をちらっと見て、「もうすぐ6時だな。」と思ったことを覚えています。
 そんな時、 ガタガタと机が揺れ始めたのです。 すぐ収まるだろう、 なんて考えていました。 ところが2、3秒経っても揺れは止まらず、 ついにライトも停電してしまいました。真っ暗になつた部屋で一人体が動かず、 ただただ目を瞑り耳を手で塞いで、 蹲っているのがやっとでした。
 あの後、 隣の部屋の弟から声がかかりゆっくり目を開けてみると、 暗い部屋の中がとてもひどい状態なのがかすかに目に映りました。私は英語の教科書を手探りで見付け出し、 足で踏める場所を探しながらゆっくり部屋を出て弟と居間へ急ぎました。
 しばらくすると電気も付き、 居間には家族全員そろって、 みんなそれぞれに不安そうな顔を並べていました。 そんな緊迫した雰囲気の中、 私は一人どこからともなくエンピツを探し出して来て、 広告の裏で単語の練習をしていました。 今思うと、 あの時は私も必死だったんだなぁ、 と苦笑いしてしまいます。
 この震災の後、 私の神戸高専受験の話も大きく揺れたのですが、 なんとか受験を許してもらえ、 合格することもできました。
 震源地淡路の私の家は半壊です。 他の家も大きな被害を受け、 商店街も原っぱのようです。
 これから町の復興が始まるわけですが、 私も学校でしっかり勉強をし、 数年後には町の人達と一緒にこの町の復興に参加できるような人間になりたいです。

(都市工学科1年 ■■・津名郡)

□ 7Fからの脱出

 1月17日の日は宿題のためにAM4:00ごろまで起きていて、 ふとんの中に入っても寝つけず、 ずっと起きていた。 その時に地震は起きたのだが、 最初はたいした揺れもなかったので平気で横になっていた。 前日にも地震を感じていたのでよく地震が起きるなと思った瞬間に、 上の階が落ちてくるような震動に襲われた、 タンスや本棚などあらゆる物が倒れてきたが、2段ベッドに寝ていたため下敷きにならずにすんだ。 周りで人の叫び声がする中、 地震が終わるまで自分のベッドが倒れないように壁にしがみついていた。
 地震がおさまると、まず下で寝ていた兄と二人で隣の部屋でタンスの下敷きになって抜け出せないでいる家族を助け、 外に出ようとした。 すると、 玄関は地震のためにゆがみ、 ドアは開かなかった。 男3人がかりでもドアは開かず、 外に出られない状態になった。父や兄がずっとドアをこじ開けようとする中、 僕は、 台所の小窓が開くことに気付き、 そこから外に出ることにした。
 住宅の7階から町を見ると、 5ヵ所ぐらいから煙が舞い上がり、 ガスのにおいがただよっていた。 近所の人も外に出られず、 「助けて!」 と叫び続けていた。 兄と二人で近所の人を小窓から助け出し、階段のある所へ素足で走った。 しかし、 住宅は真っ二つに割れており、 階段はくずれていたため、 北側の階段を使って降り始めたが、 その階段も4階から先はなくて、 その下はくずれていた。 4階から地上まで高くて飛び降りられず、しかたなく割れている中央の階段を飛び越えて、 南の階段を使うことにした。 割れている場所で僕は老人や子供が渡るのを手伝った。 その時初めて、 自分達の後に人の列ができているのに気づいた。 全員が渡り終えると列の後ろについて行った。 が、 南の階段も2階までしかなく、 2階から住宅の外に付いてるパイプを使って地上まで降りた。 1階の駐輪所はつぶれていたため、2階から地上まで2mほどしかなかった。
 地上に降りると、 そこにはエレベーターや住宅の屋上の部分などが落ちており、 とてもこの世の風景には見えなかった。 住宅の周りの木造の家などは跡形なくつぶれていて、 外はまだ暗く、 雪もちらつくほど寒かったが、 火事などで空は赤かった。 母や近所の人などけが人も多く、 自分が無傷で住宅の7階から逃げて来たことが信じられなかった。 周りでは、 橋が落ちているにもかかわらず車で逃げる人もいた。 その中で僕と兄は、 負傷者を病院へ連れていったり、 家の下敷きになっている人を助けたりした。

(電気工学科4年 ■■・神戸市長田区)

□ あの時

 1月17日5時46分に大地震が起こった。今思えば、あんな悲惨な体験は二度とないと思う。昨日まであった外の景色は全く変わったものになっていた。家の中の物はすべて倒れ、壁も落ちていた。始めのゆれを感じた時、寝ぼけていて、何が起きたのかわからなかった。揺れが強くなるにつれて、ただ事じゃないと思った。何か頭に落ちてきて強く打った。
 それで目が覚めた。家の中がぐちゃぐちゃですごいなあと思っていたら、外がざわざわしていた。二階から外を見ると、以前本などで見た終戦直後の日本のように、家がすべて倒れていて少しほこりで見えにくくなっていた。
 外へ出てみると、『助けてー。』という声がまわりから聞こえてきた。父と兄と僕で近所の人を助けに行った。その間に余震がかなりあったらしいが、そんなのは感じず必死で人助けしていた。
 一段落ついたと思ったら、今度は火が出てきた。みんな小学校に避難して近所を見回ってみると、それはすごい光景だった。足の踏み場もないぐらい、ガレキや全壊した家があった。その時感じたのは本当に信じられないという気持ちだけだった。
 学校に避難して、友達や先生、知り合いの人たちに会ってほっとした。幸いにも家族や親戚、知り合いの人の中で亡くなった人はいなかったが、亡くなった人のことを考えると心が痛んだ。ラジオを聞いていると、死者がどんどん増えていき、すごい大地震だと改めて知った。

(電気工学科2年 ■■・神戸市長田区)

9.2.2 被災して

□ 深い眠りの中で

 午前3時まで、 本を読んでいた。 何の本を読んでいたのかは忘れたが、 とにかく読み終わったのがだいたいそれぐらいだった。 “明日も学校に行ってから…”とか思っているうちにいつの間にか眠っていた。
 “体が重いぞ”“あれ体に何か乗ってる”私の部屋には雑誌などが天井までつまれていたので、 それがほとんどベツトの上の私にのっていた。 ねぼけながら窓を見ると開いているので、誰が開けたんやろうと思いながらバンと閉めてまた寝てしまった。 すると、“■■”“■■”と呼ばれ、 時計を見るとまだ6時前、 なんでこんなに朝早くから起こされなあかんねんとか思ってベットから起き上がると、 部屋の中は台風がきたみたいになっていて、 ベットの横のスピーカーからアンプまでが自分の横に落ちている。 実際外に出るまで誰かのいたずらやとばかり思っていた。
 実際は眠っていて震度7を体験していないに等しいが、 本当の地震の大変さはその後の生活だった。 学校はしばらく休みであったが、家は全壊で、 夜になると眠れるものではなかった。 仕方なく車で寝たが、さすがに4日目,5日目となると、 “次の地震で家がもたないのは分かるけど、 足を伸ばして腰を伸ばして眠りたい”と思った。 そして何よりも寒くてしょうがなかった。 食事も昼にたいたご飯をおにぎりにしておいて、 おかずはかんづめで、 暖かいと感じる時がなかった。
 しかし、 父の高校時代の友達が電車のレールをずっと歩いて、 コンロとボンベをいっぱい背おってもってきてくれた時は、 感極まるものがあった。 その他にも私の幼なじみの家族の方々など、 お互いに助け合って何とか今の生活を取り戻した。
 今では、 平穏な生活の中であの日を忘れそうになる時がある。 そして本当にあの日はあったのだろうかと思う時がある。 忘れ去ってしまってはいけない日々だが、 それぐらい平穏な日々が続けば、 と今はそれが一番の願いだ。

(電気工学科5年 ■■・宝塚市)

□ 生き埋めになって

 あの日は、これから先ずっと忘れることのない日になるだろう。なにしろ2時間近くもつぶれた家の中で寝たままになっていたのだから。あの日はとても寒かった。パジャマ一枚だったのに、壊れた家の透き間から冷たい風が入ってきた。地面からはガスの臭いもしていた。
 家族4人は、
  「大丈夫か!」
  「早く助けに来てくれないかなあー」
などと声を掛け合っていた。みんな無事だったので、ほっとしていたのだが、余震がくるたびに重い屋根がだんだん低くなってくるようで、ぼくはもうだめかなとも思った。
 2時間後、隣の人に助けてもらい、家族4人は無事に逃げ出すことが出来た。外には屋根から出た。周りを見ると、家やビルが崩壊していた。そしてそのすぐあと、近所の人が火事が起こっていると教えてくれたので、■■小学校へ避難した。遠くの方から3、4箇所から火事が起こってきているようで、煙が上っていた。途中の道では雪に混じって火の粉も舞っていた。
 避難所は避難者でとても混雑していた。何も出来ずに夜を迎えた。電気も通っていなかったので、部屋の中は真っ暗だった。持っていたローソクに火を付けると、その光が真っ暗だった心の中を少しやわらげてくれるようだった。しかし、窓の外に見えるのは赤々と燃えている空だった。火事はぼくの家の近くまで迫ってきていたようだが、ぼくの崩れた家は燃えずにすんだ。
 ボランティアの人が食パンをくれたが、一人半枚だった。
 次の日、友達の親のすすめで隣にある■■高校へ移動した。その日から5ヶ月半もそこでお世話になっていた。そして、いろいろな人に助けてもらって、避難所でも普通の生活を送ることが出来た。
 

(機械工学科2年 ■■・神戸市長田区)

□ 思い出の地

 震災が起きた1月17日、僕はまだ中学生だった。ちょうど3学期も始まり、受験も目前にせまった頃だった。
 目が覚めて家の外に出てみると近所の家がつぶれていた。赤い炎をあげて燃えている所もあり、僕の家にも火が回ってくるのも時間の問題だった。僕たちは、運び出せるものは出来るだけ取り出した。その後、近くの小学校に避難していると、「この小学校にも火が回って来るので別の学校に移動してくれ」と言われた。そう言われてあわてて自分の家に戻ってみると、すでに火があがり、赤い炎をあげて燃えていた。それが目に入った瞬間、体中の力が抜けた。近所の人の中には泣き叫んでいた人もあった。僕も涙が止まらなかった。
 別の小学校に避難して一晩過ごすことになった。電気もなく、冬なのでカイロを体につけていた。どこの犬かわからないが、地震の恐怖のせいか異様な泣き声をあげていた。何度も余震が続き、ゆれる度に学校中がどよめいていた。本当に長い夜だった。  僕たちはその後知り合いの家に居ることとなり、車で遠くまで行って食料品を買い込んできて、まだましな生活が出来るようになった。
 地震でなくしたものは、本当に数え切れない程だけど、その分、人のあたたかさ、物の大切さ、命の尊さなどを身体や心で感じることが出来た。

(都市工学科 ■■・神戸市長田区)

□ 『スベテモエタ』

 1月17日から8月31日まで、 ぼくは避難所での生活を送った。 テレビなどで雲仙災害を他人事として見ていた自分に、 まさかその立場がまわってくるとは思ってもいなかった。 朝、 ドーンという大きな震動で目が覚めた。 始めは何が起こったのかわからなかった。 それからすぐ大きく揺れ始めた。 僕の部屋は幸いガラス製品がなかったので、 ケガもなく、 家の方も崩れることなく無事おさまった。 しかし被害はそれだけではなかった。
 とりあえず外へ出てみると、空が赤く燃えていた。 すぐ近くのビルが燃えていたのだった。 家の周りもガス臭い。 とにかく避難するしかない。 ひとまず近くの小学校へ行った。 行く途中もひどかった。 家は燃え、 道路は崩れ、それでも人であふれている。 車が後ろの方からかなりのスピードで走ってきた。 それが割れた路面にあたり横転した。 それくらいひどかった。 小学校の教室でとりあえず休息をとった。 空が明るくなり、 昼になった。 それでも周りは赤く光っていた。
 父が「家の様子を見てくる。」と言って出て行った。 しばらくして戻ってくると、 「家が燃えている。消防車も出てなかった。」と言った。 僕は悲しみも出てこなくて、 ただぼう然としていた。
 『イエガモエタ』
 『カエルトコロガナイ』
 『スベテモエタ』
そのことだけが頭の中を空回りしていた。
 なんとか落ちつき、 避難所での生活が始まった。 周りのみんなも全員が同じ立場ということですごく協力的でまとまっていた。 これから一緒に生活する家族となった。 物資も偏ることなく平等に、分け合って暮らしていった。
 仮設住宅の募集が何度かあって同じ部屋の人もどんどん離れていった。 僕の家族は最後の募集でやっとあたり、 9月からは仮設住宅に住むことができた。 それでもあたらない人は、 待機所という名の場所で暮らすことになるが、僕らは、 やつと“0”からのスタートができることになったのだ。

(電気工学科4年 ■■・神戸市須磨区)

□ もうここには住めない!

 1月17日朝、地震の少し前に目が覚めたような気がした。それは、何かの前兆だったのかもしれない。そして、恐怖の5時46分がきた。最初にドドンと地面が落ちる感じがして体が宙に浮いた。今度ははっきりと目が覚めてしまった。地震の揺れは口では言い難いが、敢えて言えば、洗濯物の乾燥機の中にいるような感じだった。前後左右に振り回され、自分自身で体の揺れを抑えることは不可能だった。
 揺れがおさまったときに母の声がしたので、布団から飛び出して行ったが、父が、「余震がくるぞ!」と叫んだので布団をとりに戻ることにした。しかし、倒れたタンスが邪魔をして布団をとることができず、布団を被れないまま何度か余震に耐えることになった。
 少し落ちついてから家族の無事を確認し、外に出ようとしたが、水屋が玄関への通路をふさいでいて、すぐに外には出れなかった。幸い、1階に住んでいたので裏の窓から抜け出すことができた。外に出てみると、近所の人たちのほとんどは近くの中学校に避難していたようだが、何人かは道路に残っていたので、お互いの無事を喜び合うことができた。
 道路のいたる所に亀裂や隆起ができていた。道路の脇から、ガスがシュウシュウと音をたてながら漏れていて、しばらくすると気分が悪くなってきた。また、とても寒かったので父の車の中にいることにした。なすすべがなく、こうして時間がたつのを待つしかなかった。
 外の状況は、この世の終わりに近いものではなかったかと今も思う。近所には、完全に崩れ落ちた家こそなかったが、住んでいた文化住宅は基礎の部分がすっかりダメになっており、
 『もうここには住めない!』
と途方に暮れた。
 それから、従姉妹の家に避難することになった。崩れかけたわが家から家財道具を運び出す日がしばらく続き、その後も毎日のように家の様子を見に行った。15年間住み慣れた家にはものすごく愛着があり、引き払う際には後ろ髪を引かれる思いだった。
 この地震の体験は、一生忘れないだろう。今でも、小さな地震の揺れを感じると、また大きな地震が来るのではないかと胸がドキドキする。もう二度と体験したくないものである。

(機械工学科5年■■・神戸市垂水区)

□ 絶望も感じた日

 僕も被災者のひとりです。 家は全壊し、 今も仮設住宅に住んでいます。 周りの人達はみな老人か、 幼い子供がいる世帯ばかりです。
 あの時、 僕はまずふとんをかぶり、 ちぢこまっていました。 そして父・母や兄と姉の安全も確かめて、 外へ出ました。 手に持っていたラジオを聞き、 それは本当かと耳を疑いました。 でも、 自分の部屋や家を見て本当だということが分かりました。 足が自分の意志に逆らってふるえ、 そして今にもひざが折れそうな感じでした。
 夜が明ける少し前に公園へ行き、 どこからか、 何か、 指示があるのを待っていました。 その間にも余震が続き不安な時間をすごしていました。 やっと指示があって僕たちは近くの学校へ行くことになりました。 そして夜になると、 もちろん電気がつかないので真っ暗で不気味でした。 あまりのショックでボーッとした人もいれば、 やってられるかとばかりに酒ばかり飲んでいる人もいます。 まさに絶望を感じました。 また、 度々来る余震にもおびえていました。 ほとんどねむれなかったです。
 翌日、 僕は、新聞の号外で神戸市各地で地震の影響があることを知りました。 まさか、 あの三宮がとしか思えませんでした。 国の対応はというとかなり遅れていました。 一人一日一食程度だったと思います。 でも、 一番困ったのはトイレでした。 すごくきたなかったのです。
 外を歩いていると近所のコンビニがシャッターを開けていたので列に並びました。 かなりの人がいて順番に店に入って行きました。 店の中はぐちゃぐちゃでした。 袋いっぱいに買い、 近所のみなさんと分けあって食べましたが、 あまり足しにはなりませんでした。 それから真っ暗な夜を不安な気持ちで過ごしました。
 三日目になると、 なんとか親戚の家と連絡がつき、 大阪へ避難することになりました。 そのころは、 阪急・阪神・JRとも、 西宮かまたは甲子園までしか走っていないので、 西宮北口まで歩くことにしました。 大阪につくと、そこはまるで別世界でした。
 親戚の家に着いてテレビを見て、 大変なことになっているのを知りました。 あまりのショックでぼう然とし、 テレビのそばを離れられませんでした。

(都市工学科 ■■・神戸市中央区)

□ 避難所へ…

 ドーン。 ガタガタ……。 家がミシミシ不気味な音をたてている。 私が目を覚ました時にはもう本棚の下じきになり、 その上タンスやガラス棚などすべてのものの下じきとなって埋れていた。 「助けて。」この言葉を何度叫んだことだろう…。 そして私以外にもどれだけ多くの人があの時助けを求めていたのだろうか。
 私の父はちょうどその時間、 市場で魚の仕入れをしていたので、 家には母と兄、 そして私の合計三人がいた。 もし兄の修学旅行の日程が一週間早かったら、 私は兄に助けてもらえず死んでいたかもしれない。 私達はすぐ近くの■■高校に避難することにした。 しかし、 ■■高校で避難する教室にあてられていたのは数部屋で、 とてもこんな数じゃおいつけないと、 事務長に頼みに行ったのは兄だった。 そして講堂やその他の教室すべてを開放してもらった。 その夜から■■高校に避難してくる人の数は千人を軽く越した。
 避難所での最初のくらしはつらかった。 何にもなかった。 一日目の配給はコッペパン1/2個とバナナ1/2個だった。 それがあたらない人もいた。 他の避難所では食べる物さえなく、 グランドや屋外で一夜を過ごす人々もいた。 そのときの不安な気持ちは今でも鮮明に記憶に残っている。 そう、 テレビでは長田の街が大きく激しい炎を上げて燃えていたのだから。
 この先どうなるんだろう、 そんな思いがこの避難所全体に悲しく響いていた。 それに追いうちをかけるように悲しい知らせが続いた。朝刊には死亡者リストがのっていた。知りたくなかった。ウソであってほしい。生きていてほしい。 何度もそう願ったのに、 クラブをして生徒会活動といっしょだった後輩の死、 そして親友の兄の死、 そして同級生の死、 名前を見つける度にこみあげてくる涙で顔がぐちゃぐちゃになった。 声を上げて泣いていたのかもしれない。
 私はたまに時計を見るのがこわくなる時がある。 5時46分。 もう二度と起こってほしくない。 もう二度と。 地震が起こったあの日、 私の心の針も時計のように止まっていたのだろうか。 その心の針がまた元のように元気に動き出したのは、 自衛隊の方やボランティアの方、 そして全国から応援して下さった方々の温かい心を感じることができたからだ。 本当にありがとう。 その感謝の気持ちをいつも忘れずに生きていきたい。 そしていつか、 どこかで困っている人達がいたら、 私もボランティアの一人として役立って生きたいと思う。

(応用化学科1年 ■■・神戸市長田区)

□ よくまあー生きていた

 あの時なぜか目が覚めた。目が覚めて10秒ぐらい後にあの大きな揺れ。「家がつぶれる。家がつぶれたら、みんな死んでしまう。」と思った。そんなことを考えることができるほど長い揺れだった。その間何もできず、ただ手を顔の前においていただけだった。揺れが止まってみんなが起きてきたが、家族全員怪我一つなかった。そして外に出て驚いた。向かいの平屋の家がなくなっていたが、その家に住んでいる老人二人が小さな隙間から出てきたのでほっとした。まだ暗かったのでなにがなんだかわからなかった。その間、体の震えが止まらなかったことを今でも覚えている。複数の消防車と救急車のサイレンが重なって聞こえていた。
 明るくなるにつれあちこちで煙が上がるのがわかった。なんか戦争のような感じだった。道は段差ができ、水が吹き出て、家が倒れている。こんな状況がどこまで広がっているのか、何も情報が入らず不安でいっぱいだった。自分の家も南に傾き、前の道路と家が10cmほど離れていた。家の中のものはほとんど倒れ、電灯は落ち、食器は全部割れていた。家族に怪我がなかったのが不思議なぐらいだった。
 自分たちは近くの高校に避難した。避難所はすぐに人でいっぱいになった。最初の日は何も食べるものがなく、救援物資が夜になってやっと届いたが、二人でおにぎり1つしかなかった。日が経つにつれ、腹一杯食べれるだけの救援物資が届いたが、食事はあまりすすまなかった。
 情報はラジオから入るが、被害状況が大きくなり、死者の数が増えるたびに不安も増えていく。あの人は?あそこには友達が住んでいる!大丈夫か?そんな不安を全員が持っていただろう。とにかく時間が過ぎてほしかった。
 1週間ぐらいしてだろうか、連絡がとれだしたのは。自分のまわりには亡くなったという人を聞かなかった。クラスの友達が何時間もかけて避難所まで来てくれたりもした。その頃にはだいぶ落ちつきを取り戻していた。だが、日に日に少なくなるものの、余震はずっと続いていた。そして、余震が起こるたびにどきっとし、まだ小さい子供などは泣き出していた。そのせいか夜は全然眠れなかった。電気がないので、6時ぐらいになると真っ暗になり、避難所には懐中電灯の光とラジオの音が響きわたった。電気がきたのは地震から10日ぐらいたってからだが、電気がついた瞬間、避難所に拍手が起こった。
 地震から3週間目に自分たちは家に帰った。最初は家の傾きに不安を感じたが、今では普通の生活とかわらない。電気だけがそのころにはきていて、ガスと水がくるのは結局、4月の中頃になった。ただ、食べるものや水は毎日避難所の配給に母が並んでいた。家にいると、冷たい配給の弁当も電子レンジであたたかくなるが、なんか避難所のみんなに悪い気がしてあまり食べられなかった。
 3月ぐらいになると、向かいの家が完全になくなった。今では自分の部屋から半年前までは見えなかった道が見え、あちこちで新しい景色に変わっている。生まれて初めてだろう。一瞬にして全てを変えてしまう自然の恐怖を知ったのは。「よく生きていた」と思うのは大げさではないと思う。そして今でも避難所やテント暮らしの人たちがたくさんいる。自分には何が出来るかわからない。ただ、土木技術者のはしくれとして1日も早い復興のためがんばっていきたい。

(平成6年度土木工学科卒業生 ■■・神戸市長田区)

□ 24時間の記録

 1月17日午前6時、家族は無事。埋まっている人を助けようとしたが、親父に止められる。
 親父の言葉は、「オマエが死んだらどうするんや!」だった。そう言われて人を助けられなかったことを今でも後悔している。
 それからおじさんの会社に避難した。辺りは戦場のようだと、誰かが言ったのを強く覚えている。
 正午、友達の大半は無事であることを確認したが、一人の友達の家に火が移るかも知れないというので、行ってみると、友達とその姉が涙を流しながら祈っていた。幸いにも火はまわらなかった。
 震災直後、外国人の泥棒が急増していると聞いたが、ほんとうのことは誰も知らない。差別と偏見がとびまわっているように感じた。
 夕方6時頃、辺りは真っ暗になって長い夜が始まる。地震の恐怖に寝るに寝れない。ローソクの灯がとても不安そうに燃えていた。ラジオの声をすごく遠くに感じた。
 午後11時頃、まだ眠れない。体はぐったりと疲れているのに、なぜか眠れない。引き続き余震がある。近くの小学校からは、余震が起こるたびに悲鳴が聞こえる。
 午前2時、眠れないのはみんな同じようだ。
 午前5時、気が付くと寝ていた。目をこすりながら窓を開けてみると、もう少しで夜が明けそうである。早く夜が明けてくれることを祈っていた。
 午前7時、夜が明けた。昨日の事が夢のようだが、戸外に出てみると、現実が広がっていた。これからどうして生きていけばよいのか、そんなことを無意識に考えていた。

(電気工学科2年 ■■・神戸市長田区)

□ あの日のこと

 普段ならば目覚めが悪いのに突然目がさめた。よくいわれている「ドーン」という音は聞いたような聞いていないようなという状態である。目が覚めてすぐに揺れている事に気付き、「地震か?」と思っているうちにだんだんと揺れ幅が大きくなってきた。とりあえず頭を守らなければと思い、頭を抱えたまま布団にもぐりこんだ。今思えば、もし家が倒れていれば布団をかぶった程度ではどっちにせよ助かっていないのではないかと思う。布団にもぐっているうちに足に重みを感じたのだがそれがなにかと考える余裕もなく、ただひたすらに「早く止まってくれ」と願うばかりであった。
 ようやく揺れが止まり、とりあえず布団から顔を出すと足の上にタンスが乗っていた。無駄だとは思いながらも蛍光燈のスイッチを引っ張った。案の定停電していたので脇にあった懐中電燈と目覚まし時計にラジオがついている事を思い出し、それらを持って何とか布団から這い出して部屋の中を見た。その瞬間あっけにとられた。タンスは倒れ、ガラス製の人形ケースは床で粉々に割れ、テレビやオーディオを置いてあった棚は棚ごと倒れ、部屋の上の方に置いてあった物はほとんどが落ちていた。これこそ足の踏み場も無い状態だと思いながらもすぐに我に返り、飼っている鳥が心配になったので見ると、鳥籠は壊れていたが、元気にというか騒いではいたが無事だった。その鳥を安全であろうと思われる場所に置き、とりあえずどうしようかと途方にくれていた。この間にも小さな揺れ(多分震度4程度)があったが、被害はそれ以上大きくはならなかった。そうしていると、下から母親の「降りておいで」という声が聞こえた。しかし、階段のドアの前も物が倒れていたのでドアの開かない事を伝えるとそのドアを無理矢理開けてくれた。幸いそのドアは木製であったので簡単に開ける事ができたのだ。
 外に出ると近所の人も当然外に出ていた。足元には瓦が落ちていたが、幸いこのあたりは倒壊とまではいかなかった。そして、持ち出したラジオを一緒に聞いていると、はじめのうち神戸についての情報は伝えていなかったが、少しすると「神戸震度6」という情報が伝えられた。
 時間がたち、日が昇るにつれて少しずつ情報が入ってくるようになった。まず各地でガス漏れが起こっている事、何件かの火事が起こっている事。少しずつ人々の行動範囲が広がってくると、南の方の被害はひどいらしいということや、三宮のビルが倒れているといった情報が入ってきた。これらの情報からも地震の大きさが分かった。
 とりあえず今日寝る場所を確保しなければならないので、名谷に住む友人宅に連絡をとった(北や西の方は比較的被害が少ないと聞いていたので)。友人宅へ行く途中の自動車の中から長田の火事の煙が見えた。その時はあれほど大変な事になっているとは思わなかったが、友人宅でテレビを見て、ことの重大さを改めて知った。
 これが地震当日の私の行動である。

(平成6年度電気工学科卒業生 ■■・神戸市中央区)

□ 長い一日

 夜明け前に、小さな物音で目が覚めた。次の瞬間、轟音とともに体が空中に浮いているような感覚にとらわれた。自分の体に何が起こったのかが一瞬把握できなかった。「地震だ」と感じるまでにそれ程時間がかからず、そして、体を守らなければと思い、布団の中で頭を抱え、背中を丸める。窓の外からは瓦が落ちて割れる音、家の中では本棚が倒れる音などが耳に入ってきた。揺れが収まり、外に出てみると遠くのほうで火事の火が空を焦がしていた。付近を歩いてみたところ、同じようにうろうろしている人がいたり、ガスの臭いがたち込めたりしていた。戻ってきた頃には空も明るくなっていたので、我が家があるアパートが傾いているのがよく分かった。倒れなくて良かったと思った。部屋の中は全てが散乱し、足の踏み場も無い状態だった。昼過ぎ迄何もせずにぼーっと座っていたが、いきなり部屋の電灯が灯った事に驚いて、そのおかげで通電したと言う事を知った。テレビを見てみると、どのチャンネルも地震のニュースを流していて、その大きさにびっくりした。夕方ごろから兄と部屋を片づけ始め、夜には何とか歩き回れるようになっていた。昼間は何も食べる気がしなかったが、さすがに夜になるとお腹も空いてきたので、カセットコンロを使って冷蔵庫の中にあったものを料理した。晩御飯を食べる事ができ、また、温かい物が食べられて、とても落ち着くことができた。深夜の2時を過ぎたころ寝ることにしたが、いつまた大きな地震がくるか分からないので、服を着たままで横になった。しかし、疲れてはいたものの、緊張のためすぐには寝られるものではなく、小さい余震の度に目が覚めながら、浅い眠りにつくことができた。そして、長い一日もこれでやっとおわった。

(機械工学科 ■■・神戸市中央区)

□ 頭を抱えて

  「ふとんかぶって、 頭抱えてー。」
 母が叫んでいた。 状況を理解したとき、 僕は丸くもなれず頭を抱えて震えていた。 そして、 生まれて初めて死を感じた。 永遠の20秒間だった。 食器の割れる音、 物が落ちてくる音、 この世の終わりだと思った。
 地震が収まり少し落ち着いてきた。 しかし鼓動は収まらなかった。 それから手に汗を感じた、 体全体からも。
 生活は大昔に戻った。 電気、 ガス、 そして水さえも。 すべて当たり前だと思っていたものが消え去った。 かろうじて懐中電灯があった。 ろうそくに火をつけ、 水をくみに行った。
 しばらくして当たり前のように電灯がついた。 その時初めて生きていると感じることができた。 テレビをつけたとき戦争のビデオが流れていると思った。 しかしそれは今現在の神戸だった。 自分の知っている町ではなく、 壊れるはずのない建物が壊れていた。 いつまでも燃え続けていた。 人間は無力だった。

(電子工学科3年 ■■・神戸市北区)

□ 1階がなくなっている

 あの時は目が覚めて体がぐにゃぐにゃと頭から足の方へ波にのったように揺れていたのを覚えている。 その揺れが終わったすぐ後に、 南の玄関のあたりから大きな物体がぶつかる音とガラスが割れる音がした。 同時ぐらいに、 布団の上や頭の上に色々なものが落ちてきた。 その時は、 食器棚が倒れたり、 テレビか何かが倒れたものだろうと思っていた。 後始末は親がしてくれるからもう1回寝ようと思い、 じっと布団の中にいた。 隣の部屋の母が 「逃げるよ!」 と叫んだ時も、 もう少し寝ているからと答えたが、 外から叫び声や悲鳴が聞こえてきたので起きて服を着た。 とはいうものの何も見えない。 今、 考えればおかしな話だが、 ポケットからライターを取り出して火をつけた。 ガス漏れなんて考えもしなかったからだ。 その火の光で家の中は歩くのも苦労する状態だと知る。 玄関からは出られず、 風呂場から素足で外を見る。
 外は、 南側の古い家が、自分が住んでいる文化住宅の玄関を塞いでいた。 壁を伝って2階へ上ってみた。 南を見ると西の方は煙が上っていた。 東隣の文化住宅は1階がなくなっていた。 西側の駐車場に人が集まっていた。 下にいた母が、 近所の人は着る物も着てないと言ったので、 1階の自分の部屋から冬に着ていた物をあるだけかき集めて渡し、 みんなで駐車場に行くことになった。 地震の前だったら、 歩いて1分もかからない玄関から見えている場所に、 他家の塀をのり越えて行かなければならなかった。
 その駐車場から住んでいた文化住宅を見ると、 北側の鉄骨造りの倒れてない家に、もたれている状態だった。 その時初めて自分はケガひとつせず運が良かったのだ、と思った。
 近くにいた同級生に靴を借りて、 周辺を歩き回った。 まず西側の煙があがっている所を見に行った。 少し見ていると、 何かシューと音がし、 その直後ガス爆発が起こった。 消防車が来ても、 銀杏の木や電柱が道に倒れているので近づけず、 ただ見ているだけだった。 その後東へ歩いていると、 人が埋まっているから手伝ってくれと言われ、 手伝って引張り出したりしたが、 柱などがじゃまで何もできないところもあった。 人間一人の力では何もできないことを知った時でもあった。 また東側へ歩いていると、 阪神電車が高架から宙ぶらりんになっていた。 車掌さんたちが乗客を一人一人下に降ろしていた。 東側ではまた火が出ていた。 煙の所まで行くと、 自分の出身中学が燃えていた。 理科室の薬品が倒れ火が付いたそうだ。 また歩いていると、 中学の時の友人に会い、 色々と周りの状況を聞いた。 あたりを一周し、 駐車場へ帰ることにした。 その頃には、 道端に毛布に包まれて遺体が並んでいた。 それまで映像の世界でしか見たことがないものがこの街にあった。 その中には叔母も入っていた。 人はとても重いものだということは、 叔母を運ぶまで知らなかった。
 昼過ぎて2時頃だろうと思う。避難する場所を親類みんなで考えた。どこも一杯で廊下にあふれている、 と友人から聞いていたが、 燃えた中学の北校舎は被害も少なく、 あまり人もいないと聞いていたので、 そこへ全員で向かった。北校舎はすいていて教室に入れた。寒さを凌げたのだ。
 夜は山の近くに光が見える程度で真っ暗だった。 他の人々はほとんど気が高ぶって眠れない様子だったが、 自分はそんなことは気にせず、 9時頃には寝ていた。 自分で言うのもなんだが、 多くの事が起こり過ぎて、 とても疲れたのだと思う。 そんな1日だった。

(平成6年度機械工学科卒業生 ■■・神戸市灘区)

9.2.3 あれからの日々

□ 受験勉強再開

 戦後2番目の被害といわれる地震。 家屋は倒壊、 交通機関、 ライフラインも遮断された。 本当にあっという間の出来事だった。 その時僕は家族と外に飛び出し、 半ば放心状態で崩れた家を見ていた。 しばらくして周りを見回すと周りの家々も結構崩れていた。 二時間程たって周りが明るくなった頃、 祖母といとこに無事を連絡するため電話ボックスに並んだが通じなく、 連絡できたのは2、3日後だった。 しばらくの間はじっとしていられず、 机に向かって勉強なんてしていられなかった。 何んでもいいから体を動かしていたかった。
 テレビやラジオから聞こえてくるのは地震の事ばかり、 当日死者430人だったのが最終的に約5,500人にのぼった。
 ボランティア、 励ましの頼り、 義援金等をしてくださった方々にはとても感謝している。 たとえ被災していなくても、 この地震は忘れてはいけないものだろう。 自然に対して何もできなくても、 人と人が協力することはできる。
 地震から二週間程たって、 受験勉強を本格的に再開した。 「大変な時に受験生になったなあ。」と、 そのときしみじみと実感した。 その時の僕はこの震災の事を忘れぬよう毎日の新聞をとっておいた。 忘れようにも忘れられない事だと思うが、 記録としておいておきたかった。
 震災から半年以上たった今、 人々は前の生活を取り戻すため一生懸命になっている。 僕も「あのときの僕」を忘れぬよう前の生活に戻りたい。

(機械工学科1年 ■■・西宮市)

□ 水くみ

  「ガタガタ」
 ものすごいゆれを感じたのは、 1月17日の朝のことでした。 私は部屋で、 寝ていました。 するとお母さんの声がして
  「みんな、 大丈夫?」
と言いました。 その時、 私は、 はじめて地震が起きたことを知りました。 幸い私の家は全く被害がなかったので、 まさか外があんな状態になっているなんて思いもしませんでした。朝になって、 電気が通ってテレビをつけると、 想像できないような風景が映っていました。 高速道路が倒れていたり、 家がペシャンコになってつぶれていたり、 火事がおきていたりしていました。 すぐに、 助けがこなくて、 死んでしまった人がたくさんいました。 もっと早くかけつけられなかったのかな…、 もっと早くかけつけられるようにいろんなきまりを考えたほうがいいと思いました。
 私がこの地震で体験したことは、 水が出ない生活です。 地震で水道管がやぶれてしまったからです。 生まれて初めて水くみの体験をしました。 給水車が家の近くまできていたので、 バケツや水くみ用のタンクを持ってくみに行きました。 その作業はとてもつらくて、 しんどいものでした。 友達と一緒に水くみに行ったりしました。 みんな私と同じ、 初体験でした。
 「はやく水でたらいいのにな。」
 「ほんまやなあ。 ほんま水って大切やな。」
とそんな話をしながら水くみをしていました。水がないということはとても大変なことでした。 水を使わないでいいように、 紙コップや紙皿や割りばしを使ってご飯を食べました。 お風呂に入れないので、 頭が洗えず、 散髪屋さんに洗ってもらいに行ったりしてとても大変な生活でした。 でも私は水がでないだけですみましたが、 被害の大きかった所では、電気もガスもでなくてもっと大変だったんだろうなと思いました。
 テレビを見ていると避難所のことを取り上げていました。 避難所はとても寒そうでした。おじいさんやおばあさんはとてもつらそうでした。 そんな姿を見ると、 なんとかならないものかなと思いました。 もっと早く食べ物や毛布を送れないものかと、 もっとお医者さんを派遣できないものかなどと、 いろいろ考えていました。 テレビで見ている避難所はどこも環境が悪くて、 人が長い間生活できる場所とは思えませんでした。 でも、 そんな避難所でもいろいろな人々の助け合いがありました。あんな震災にあっても、 みんなで協力してすぐにたちなおってがんばっている姿を見ると、 何て強いんだろうと思って私はとても感動しました。 ほんとうに困った時に助け合えることはとてもすばらしいことだと思いました。

(応用化学科1年 ■■・神戸市西区)

□ 情 報

 あの地震の後、学校の用意をして駅に向かった。まさか被害があれほどまでにすごいとは思っていなかった。もちろん電車はストップ。しかたなしに家に帰った。
 テレビをつけても情報は入らない。いや、確かに入ってはいたが、今思えばうそのような情報ばかりだった。
「先程の地震で、あわてて家を出ようとしたおばあさんが、つまずいて転び、病院に運ばれました。」
 このような情報が、我々の頭に被害が少なかったというような知識を埋めこんだのだ、と僕は思っている。
 しかし、真実は時間が経てば見えてくるという言葉のとおり、少しずつではあったが、見えてきた。
 燃えている家、壊れたビル、……何日かの後には家の下敷きになったまま燃えた人の姿まで映しだされた。確かにあれは人だった。モザイクがかかっていたが、……その映像は僕に何かを伝えようとしていた。
 地震から三日後、その何かがわかる時が来た。先輩が、他の先輩の家に食料などを届けるというので、僕も連れて行ってくれと頼んだ。先輩もそのつもりだったのだろう。
 水64kg、ガスコンロなどなど、一週間は暮らせるだけのものを我々4人で届けることになった。
 明石からバスに乗って学園都市に行き、地下鉄に乗り換えて板宿に着いた。板宿からは歩いて長田の方に向かった。途中いろいろな情報を手に入れながらやっと先輩の家にたどり着いた。
 家は無事であったが、2〜3度傾いていた。周りの家が倒れているので、全く被害なしに見える。先輩に周囲を案内してもらったが、昨日傾いていた家がいつの間にか倒れていたそうだ。
 僕は案内されながら家々を見て、畳などに書かれた無事という伝言を探した。伝言があればあるほど心が落ち着くからだ。そのうちに商店街に着いた。何も無かった。いや、原型をとどめていない商店街があった。下に落ちているCDなど、もとは商品だったのだろう。薬の燃えた時の異臭、まだ燃えている所もあった。いつの間にか時が経っていた。

(電気工学科2年 ■■・高砂市)

□ 刻々と変化した入試情報

 この地震が起きたことによって私達が一番影響を受けたものは、 「受験」に関することでした。
 神戸高専を受けることをすでに決め、 願書も手元にありました。 推薦入試を受け、 失敗したら学力入試も受けるつもりでいました。 2月3日が入試で作文と面接がある、 と思っていたのに、 直前とも言えるような1月17日に地震が起こりました。
 担任の先生方は対応に追われ、 私達もどうなるのか心配でした。 推薦入試が書類選考だけとなり、 学力入試の日程も一週間遅れるなどと聞いて、 私は学力入試に備えることにしました。 地震のあと2週間ほどはゴタゴタとしていて、 あっという間に過ぎてしまったように思います。
 推薦入試の選考の結果、 私は不合格だったため、 学力入試を受けることになりました。 結果を受け取ってからしばらくした時、 「公立高校の出願締め切りが学力入試の合格発表の前日になるけど、 その辺のことはどうなるのか」という心配事が出てきました。 地震が起きてからは新聞をよく見るようになり、 特に入試に関する記事に注意をしていました。 ある時、 公立高校の出願締め切りが3月2日、 合格発表の日の翌日になるという記事を見ました。 心配していたことの対応を先生に聞かされてはいましたが、 この記事を見て合格発表の翌日になる、 と安心しました。 でもそのあと、 また出願方法がかわると聞き、 刻々変化する状況にうんざりもしました。
 学力入試の当日、 私の家のある尼崎市からの交通はまだ復旧しておらず、 JRと阪急の一部復旧した所を利用して、 駅から駅まで歩き、 3時間ほどかかって学校へ着きました。
 合格発表の日も状況は変わっていませんでしたが、 この日は代替バスを利用しました。 はっきり言って学校にいる時間よりも行きと帰り、 電車やバスに乗っている時間の方が長かったのです。
 入学式の日、 JR が一番早くつながったため、 家から近い阪急よりもJRを利用しました。 6月半ばに阪急がつながり、 JRよりもかかる時間が短くなったのですが、 JRの3ヵ月定期を買ったため、 その後もJRで通わなければならないという状態になってしまいました。

(電子工学科1年 ■■・尼崎市)

□ クラス連絡網

 5年間副委員長として担任とクラスの間の連絡係をしているためか (?) 、“学校行事は■■に聞け!!”と言わんばかりに、 警報発令後や学校行事前は何かと問い合わせがあります。 案の定、 地震後もクラスメートからの電話が相次ぎました。 その内容は、 自分は無事であることや自宅のある地区の被災状況などの報告と、 学校はどうなるのか?他のクラスメートの状況はどうか?などの質問事項の2つに大別できました。 いつもなら担任からの連絡や学生便覧などで対応しますが、 今回は初めてのケースのため、 その対処に困りました。 学校側に連絡を取りましたが、 明確な返事は得られず、 とにかく学生の安否確認が最優先であると言われました。
  考えてみれば被災している先生も多く、 【先生】==>【学生】という安否確認方法には無理があります。 そこで、 【先生】?【窓口となる学生】?【学生】の方がスムーズに安否確認できると思い、 私が窓口となって実行しました。 名簿の片っ端から電話をかけましたが、 震災直後で電話はパンク状態で、 作業は難航しました。 しかし、 1日目が終わる頃には協力体制が整い、 「Aさんと連絡とれた。」「Bさんは避難所にいたけど元気です。」「Cさんは電話が不通だけどポケットベルで連絡とれる。」などの情報が寄せられました。 その結果、 地震発生3日後にはC5クラスの安否確認が終了しました。 家から避難した人も数名いましたが、 全員が大きなケガもなく無事で良かったと思います。
 安否確認後、 今度は学校側からの連絡をクラス全員に回すことになりました。 しかし、 電話がつながりにくいことや連絡の取れない人がいることを考慮し、 通常の出席番号順連絡網を次のように変更しました。
 まず、 連絡網の一列に回す人数を5人以下に短くし、 さらにその一列を地域ごとや日頃から親しい者同士で構成しました。 連絡の取れない人は本人が友人宅へ頻繁に連絡を取るように心掛けてもらいました。 この方法を駆使した結果、 連絡もれなどもなく、 比較的スムーズに連絡が回ったと思います。 この連絡網を通じてさまざまな声が聞こえてきました。 特に5年生ということで、 学年末テスト、 卒研や卒業式を心配する声が多く、 中には出席日数を気にして 「今日、学校休講やんな?」 という問い合わせもありました。
 時間の経過とともにゆとりが出てきたのか、 「何か手伝えることがあったら言って。 」 という心強い声も増えました。 これを受けて地震発生から約10日後、 C5クラスの学生約20名と先生方とで、 被害の大きかった応用化学科棟の片付けをしました。 今となっては、 あの片付けも大変だったという思い出話になっていますが、 実際には、 業者に依託した方がよいのではないかと思えるほど薬品が流出していて、 かなり危険だったのです。
 2月が近づくと市内でも授業を再開する学校が増えました。 本校も他校と足並みを揃えるかのように、 1月30日からの学校再開が決まりました。 この決定を連絡すると、 非難の声がかなり出ました。 通学手段や余震に対する精神面の不安をもらし、 水くみやボランティアなど家族や被災地でもっとするべきことがあるなどの意見も出されました。 学校側が会議の結果出したベストな方法だったのかもしれませんが、 学生の意見も取り入れるベきだと思いました。
 一方、 連絡網を通じて多くの人の意見を聞いたにもかかわらず、 その声を学校に伝え訴えることができなかった自分の無力さにも腹立たしさを感じました。 学校も大切ですが、 あの時はもっと他にすることがあったと思います。 もう一度災害時における学校やクラスの役割りについて考えるベきです。

(平成6年度応用化学科卒業生 ■■・神戸市西区)

□ 通学地獄とその後

 ラジオは高速道路の崩壊とともに、鉄道の寸断を伝えていた。私が通学に利用している阪神電車も例外ではなかった。激震地帯からは少しばかり離れていたので、避難する必要がなかったのは幸いだった。避難所暮らしを余儀なくされた人達の苦しみに比べれば軽微だが、その後の通学というのはかなりの苦痛だった。もし私が5年生でなければ「しんどい」とでも言ってさぼればよい話だが、卒業論文を書く時期だったからそういう訳にもいかなかった。
 私の住んでいる西宮市鳴尾から学校までは、神戸の中心街・三宮を経由して通学する。ところが、三宮を中心として鉄道が寸断されているから代替バスなるものを利用しなくてはならない。その代替バスというのは輸送の役目は果たしているものの、輸送量の面で言えば電車とは比べ物にならない。まあ、光ファイバーケーブルの電話回線が切れたので、その間を糸電話で代用通信しているような感じである。
 地震後しばらくは家で待機していたが、約2週間後に登校せよとの連絡があり、登校することになった。青木から代替バスに乗って初めて三宮に入ったときの光景は今も忘れられない。1月16日に本を買いに歩いた時の姿からは想像もできないような三宮が横たわっていた。テレビを通じて見ていただけだったが、実際に見ると目を覆いたくなるような光景の連続だった。とりあえず、徒歩とバス・地下鉄を乗り継いで、いつもの3倍の時間をかけてやっと学校に到着した。みんなが無事に登校していたのでほっとした。
 しかし、学校に無事到着したからといって安心していられないのが辛いところで、午後3時には帰宅ラッシュが始まる。代替バス乗り場は非常な混雑ぶりで、二列に並んだ人の帯が300mやそこら続いている。しかも、バスに乗れば次は渋滞に巻き込まれて話にならない。特に、地震見物のために紛れ込んでいる若者の車にはいらいらした。バスの中での暇つぶしといえば、その邪魔な車をバスの乗客全員でにらむことぐらいであった。何せ、6kmの区間を歩いてもバスに乗っても同じ時間がかかるというほどの渋滞だったのだから。そして、なんとか家にたどり着く頃には日も暮れかけている。2〜3時間学校で勉強するために日照時間のすべてを費やすという日々だった。
 登校しだしてすぐの頃には、バスの窓には痛々しい光景がただただ広がっているだけだった。乗客もみんな疲れた様子だった。しかし、日が経つにつれて街は活気を取り戻していった。テントで作られた仮設店舗から夜になると漏れてくる電灯の光は、特に印象に残っている。バスの乗客もしんどいけれど、だんだんとこのバス通勤に慣れてきたようだった。私も最初の頃は「まだ着かへんのか」と気をもんで、いらいらしているだけだったが、いらいらしても無駄なことに気付き、バスの中でいろいろな人としゃべるようになっていった。それぞれの震災体験を聞いていると、やはり今回の地震がいかに大きなものであったかということを改めて思い知るのだった。
 そうこうしているうちに卒論も書き終わり、無事卒業の日を迎えることができた。しかし、もとの通学路が在学中に復旧することはなかった。
 そして6月26日。阪神電車全通の日がやってきた。当日、三宮駅から梅田行きの電車が出発する様子をテレビで見たときにはうれしかった。だが、今では震災前の通り楽に三宮へ出られるようになったというのに、あの時の代替バスが妙になつかしく思える。

(平成6年度電子工学科卒業生 ■■・西宮市)

□ 多くの仲間とともに

 今回の震災で僕の家は傾いて、 全壊と認定されました。 そして家族で大阪の祖父の家に避難していたのですが、 一息ついてテレビを見ていて、 たくさんのボランティアの人達が神戸に来ていることを知りました。
 僕も地域のために働きたいと思い、 親を説得して、 一人で神戸に帰りました。 最初の一週間は、 東灘区役所で指示された所へ行ってボランティアをしました。 その時には、 明りのない所に照明器具を取り付けて、 避難所の人達に大変喜んでもらって、 電気を専門に勉強し、 電気工事の免許を持っていてよかったと思いました。
 当時自分が通っていた■■高校に行ってみると、 担任の先生が「いろんな避難所へ行かずに、 ここにおれ。」と言われるので、それからはずっと■■高校で活動することになりました。 僕以外にも、 生徒が10人ぐらいボランティアをしていました。 近所に住んでる■■大学生の2人組や、 東京在住のトンガ人の■■さんなどと一緒に活動しました。 2月の中頃から4月の初めまで、 東京の■■大のライフセービング部のみなさんがローテーションを組んで10人ぐらいずつ来てくれました。
 毎日同じ所で活動していると、 ボランティア同士や避難者のみなさんとも仲よくなっていき、 つらい中にも楽しくすごすことができました。 同じ学校の生徒でも、 それまでは知らない同士でしたが、 ボランティアを通じ仲よしになり、 今でもおつきあいしています。 又、 僕がボーイスカウトの用事で3月から4月にかけて東京に行った時には、■■大のライフセービング部のみなさんや横浜からボランティアに来ていた■■さんらにお世話になり、 とてもうれしく思いました。
 3月15日にボランティアは解散になり、 ライフセービング部のみなさんと家のない僕だけが残って、あとのみんなの活動は終了しました。 僕も、 4月の初めに家が見つかり、 避難所を出ましたが、 高専に編入学してからも週末などはボランティアに行っていました。
 8月13日で■■高校避難所は閉所されて、 避難者の方々はそれぞれの所へ移って行きました。 しかし、僕ら学生や近所から来ていたボランティア20数名はその後も連絡を取り合って、夏休みにはキャンプに行ったりしました。 つらい大変な震災でしたが、 僕にたくさんの経験とたくさんの友達を残してくれました。

(電気工学科4年 ■■・神戸市東灘区)

9.2.4 震災に学ぶ

□ 神戸を離れて

 神戸高専を卒業後、私は■■県にある■■大学へ進学(編入学)しました。そこには全国各地の高専から同じように編入学してきたたくさんの人々がいます。
 私や私の家族は大震災で大きな被害は受けなかったものの、神戸出身で大震災の体験者ということで、大学では周囲の人々が皆、大震災のことを聞いてきます。やはり全国的にも関心が高いようです。そしてうれしいことに、今回の大震災を他人事とは考えずに、とても心配してくれている人が多いのです。
 しかし、残念なのはその被害の大きさを誰一人としてきちんと把握していないということです。被災地以外の人々、また関西圏以外の人々は、実際に被災地に足を踏み入れていない訳で、マスコミも関西以外の地方局(私の場合、中部・東海地方のテレビ・ラジオになる)では、いつまでも被災情報、復興情報、特別番組等を放送していません。特に今年はある宗教の報道があったためにそう言いえるのかも知れません。従って皆から出てくる大震災の話というと、倒れた阪神高速道路や焼けた菅原市場ばかり。町のあちらこちらで建物が倒れ、火災があり、倒れなかった阪神高速道路も実は全域に渡ってほとんどの橋脚にヒビが入っているなど、町全域での被害や、交通、生活の混乱が続いているということはほとんど知られていません。
 私自身も、大震災による死者が5000人を大きく越えていることを夏休みに神戸に帰って来て初めて知りました。東海大地震が来ると言われている中部・東海地方でさえもマスコミの取り上げられ方は長くはなかったようです。テレビやラジオで取り上げ切れないほど被害が大きかったのも事実でしょうが、いつ、どこで起きるか分からない災害には真剣に心構えしておかなければならないと思いました。

(平成6年度機械工学科卒業生 ■■・神戸市北区)

□ 手を携えて

 阪神淡路大震災。そんなものは誰も経験などしたくはなかった。たくさんの人が亡くなり、たくさんの家屋が倒壊した。家族を失った方々にとってはこの上ない惨事であったと思う。半年以上たった今でさえ、私を含めてたくさんの人々が仮設やテントに住み、普通の生活に戻れないでいる。もちろんこれほどの被害を出した大地震で喜んでいる人などはいないはずであるが、良かった点はまったくなかったかというとそうでもないと思う。
 私が一番良かったと思ったことは、人々がより仲良くなったことだと思う。家族の仲が良くなったという話もたびたび耳にする。私の家族で言うと、家は失ってしまったが、今は家族みんなで新しい家を建てるという一つの目標に向かってがんばっている。
 近所の人達との関係も少し変わった。子供のころ毎日のように一緒に遊んでいた幼なじみと、あれほど話をしたのも久しぶりであった。近所のおじさん、おばさん達とも、今までは会釈程度であったが、今は道で会えば少ししゃべったりする。
 避難所で同じ部屋だった人、お互い助け合った人達、遠くから救援物資を持って来てくれた人、無事を祈りながらなかなかつながらない電話を何度もかけてくれた人、みんな本当にうれしかった。たくさんの人に助けられ、励まされたことは、もし震災がなければ気が付かなかったものかもしれない。でもこういうことは、お金なんかよりも、もっともっと人間として大切にしなければいけないことだと思う。
 震災を通じてこういうことに気付いたのは良かったが、それは私と私の家族が全員無事で、未来に向かってがんばれる状況であるからであって、実際にはそうでない人がたくさんいることも事実である。

(平成6年度機械工学科卒業生 ■■・神戸市灘区)

□ 被災地の受験生に励まされ

 当時、 受験生だった私は、 比較的被害も少なく (食器類が割れた程度)、 起こった事柄がそんなに大変なことだったなど、 想像もしなかった。
 テレビの中では、 同じ年の受験生たちがくずれた家の中から教科書や参考書を引っ張り出し、 学校の体育館の片すみなどで必死であと数十日の受験に向けて、 勉強していた。 その姿を見て、 今まで受験生という自覚が足りなかった私はやっと、 「勉強しなくては。」と逆に被災地の受験生に励まされたような気がした。 勉強するにあたって、 何一つ被害らしい被害を受けなかった私は、 幸運だったと思う反面、 もし、 被災地が自分のすんでいる地域だったら…と思うと少しゾッとする思いもあった。

(機械工学科 ■■ ・加古川市)

□ 備 蓄

 静かな朝に突然大地震が兵庫県南部地方を襲った。 ぼくは、 地面から突き上げられるような揺れで飛び起きた。 そして激しい横揺れが続いた。 いったい何が起きたのか。 窓から閃光が入って、 すぐにまた激しい横揺れが襲った。 爆弾でも落とされたのか。 今まで経験したことのない大地震であったので、 地震であるということがわからなかった。
 地震後も大変だった。 懐中電灯がどこにあるのか。 ラジオはどこだ。 部屋中は、 めちゃくちゃだから全くわからない。 停電すれば、 ラジカセやテレビは全く役に立たない。 部屋中を片づけるのも大変だった。 蛍光灯の破片などが散らばっており、 本棚の本はすべて投げ出されていた。 屋根の瓦が半分ぐらい落ちていて、 片づけるのも大変であり、 その後、 屋根に登りビニールシートをかけるのもまた大変な仕事だった。 生きるためには、 水と食料が絶対に必要であり、 その確保に走りまわった。
 1日目は、 小学校のタンクにあるわずかな水と山近くの神社のわき水を取りに行った。 2日目で学校のタンクの水はなくなり、 水の確保は困難になった。 給水車には何百人と並び、 1時間以上待ってやっと水を確保できた。 水といえば、 トイレの水には本当にびっくりした。 いっきに大量の水を使ってしまう。 トイレの水はプールの水でまかなった。 毎日毎日大量の水を取りにいかなければならなかった。 食料は初めはかんづめばかりだった。 自転車に乗って、 食料を求めに出かけた。
 1か月くらいは動きまわっていた。 震災から学んだことは、 食料や水の備蓄をふだんからするべきということだ。 また、 地域の人たちとの協力があったからこそ水や食料の確保ができたと思う。 ボランティアの人たちにも感謝したい。

(土木工学科3年 ■■・神戸市兵庫区)

□ 温かい心

 1月17日午前5時46分−。 すごい音とともに私は目が覚めました。 1階の方からはガラスが砕け散ったような激しい音がしました。 揺れが収まった時、 地震だとはっきり実感しました。 私達はパジャマのままだったのでかるく上着を着、 ガラスの破片でグチャグチャになった床の上を素足で歩いて外へ出ました。そして近所の人々と無事を喜びあいました。 心が和んだのは、 この時だけでした。
 だんだん朝日が昇るにつれて、 家がはっきりと見えてきました。 明るい日ざしによって見えた家は何とも哀れでした。 5度〜10度傾いていたのです。 私は一瞬声も出ませんでした。 ただ、 どうしてこんな事になってしまったのかという思いでいっぱいでした。
 大分日も昇り昼にさしかかった時、 周りで近所の人々が何か騒いでいました。 何だろうと思い、 その方向を見てみると、 遠くの方でものすごく大きな煙りが舞い上がり、 空を真っ赤に染めていました。 私は釘付けになって見ていました。 心の奥から、 何か込み上げるものを感じました。
 その後、 私達は壊れた家の中から恐る恐る食料と着る物を取り出して学校へ避難しました。 その時から、 私達家族の避難所生活が始まりました。 ライフラインが寸断され、 今までの生活とはまるで違いました。 水、 食料がこんなにも大切なんだという事をつくづく思い知らされました。 そんな時、 様々な人が私達被災者に心温まる言葉をかけてくれました。 「こうやって沢山の人が励ましてくれているのだから早く立ち直っていこう…。」 と私は、 そんな気持ちで今まで過ごしてきました。
 あの時から、 もう半年以上になります。 今でもあの時の事は深く心に残っています。 そして、 決して忘れる事のできない、 恐ろしい体験をしました。 しかし、この震災で本当にいろんなことを学べたと思います。

(応用化学科2年 ■■・神戸市長田区)

□ 命の大切さ

 あの日、 私はまだ暗いうちに目が覚めた。 時計を見ると5時43分。 いつもと変わらない静かな朝だった。 その3分後に何が起こるかも知らず、 私は布団の中で考え事をしていた。 その日あるはずだった数Uのテスト勉強をするか、しないか迷っていた。
 突然、 カタカタと小さい揺れを感じた。 「あれ?地震かな」 と思っている間に揺れはものすごいものに変わっていた。 マンションの11階ですごく怖かった。 頭から布団をかぶったまま動けなかった。
 私は、 東灘区の本山に住んでいました。 建物等の被害が多かったので、 本山の風景もすっかりかわってしまいました。 それから、 ここでもたくさんの人が亡くなりました。
 地震の一週間後ぐらいに、 私は大スキだった友達の 「■■」 の死を知りました。 ■■は中学の時から親友の一人でした。 12月にいつも話していた愛犬の■■ちゃんのお散歩をしている■■に会いました。 それが最後でした。
 他にもたくさんの知人が亡くなりました。 あの時は誰もが死ととなり合わせでした。 偶然が重なって助かった人。 逆に亡くなった人。 地元の友達と話していると本当に、

 「生きててよかったね。」

という言葉が出るのです。 あんなに“死”というものを身近に感じたのは初めてでした。
 私達は大地震という大きな体験をして、 人一倍命の大切さを知りました。 このことをいつまでもずっと忘れてはいけないと思います。

(機械工学科2年 ■■・神戸市東灘区)

□ 協 力

  午前6時前「ドン」という音で目が覚めた。 電気をつけようと思って立ち上がったら、 はげしい横揺れがきて、 うまく歩けない。 部屋中のタンスや机が倒れて足の踏み場もなかった。 隣の部屋にいる妹と一階に降りようと思い階段のところまで行き、 電気がつかない真っ暗な中、一歩一歩階段を降りていったら、 階段の真ん中の所あたりが壊れていた。 なんとか一階へ行けたと思ったら、 急にガスの臭いが鼻をついた。 元栓をしめようと台所行こうにも行けない。 その時、
 「大丈夫ですか」
と、 町内の自治会の人が声をかけてくれて、 家の中へ入って来て元栓をしめてくれた。 そのままふとんをかぶって、 明るくなるのを待った。
 明るくなってから外へ出ると、 周りはもう見る気をなくすぐらいぐちゃぐちゃだった。 向かいの長屋は横に倒れ、 隣の家は壊れ、 僕の家につきささっていた。 僕の家も玄関が壊れ、 壁が落ち、 瓦がずれまくっていた。
 とりあえず中学校に避難しようと思い家族全員で毛布をかぶって家を出た。 途中で菅原市場の前を通ったとき、 真冬にもかかわらず暑いと思うぐらいはげしく火災を起こしていた。 その他の所もめちゃくちゃだった。 その時の消防車や救急車のサイレンの音が今でも耳から離れない。
 それから一ヵ月半の間、 中学校で避難生活を送ったが、 その間、 今まで生きてきたなかで一番頑張って生きた時間だったと思う。風呂には入れない、 テレビもあまり見れない、 お腹いっぱいごはんも食べれない。 けれどそんな中で自分達の食料は自分達で調達し、 町内の人達と夜間パトロールをして泥棒・火災に注意し、 まわりの人達と協力することが出来た時間だつたと思う。 人間の温かさ、 やさしさを感じることができた。
 これから僕は学校を卒業し、 社会人になり、 あと何年生きていくかわからないが、 今回の震災で失った物、 得られた物両方を胸に、 精一杯生きていきたいと思う。

(電子工学科 ■■・神戸市長田区)

□ 命ある限り

 暗闇の中、 突如として起こったあの大惨事。 私達の生活をめちゃくちゃに壊した阪神淡路大震災。
 私の家族は4人、 父、 母そして姉。 大きな“ゴー”という音と共に、 上へ突き上げられるような揺れ、 その瞬間、 寝ていた私は飛び上がりました。 瞬時には何が起こったか察知する事が出来ず、 けれどもその大きな揺れへの恐怖がふつふつと込み上げ、 自然と震えていました。 どのくらいたったでしょうか。 まるで夢の中で夢を見ているような感覚の中でボーっとしている私の耳に、 父と母が私と姉を呼んでいる声が聞えてきました。 私はすぐに返事をしましたが姉の返事がありません。 すると、 父が「下だ!」と呼んだのです。 姉は大学の試験前で、 一階で一人で勉強していたのです。 私は自分が裸足だという事を忘れて、 足の踏み場もないところでしたが、 なんとか階段を降りて、 姉を呼びました。 すると、 「ここ。 」という姉の声が聞えました。 姉は上から落ちてきたあらゆる物の下敷きになっていて、 どこにいるのか分かりませんでした。 姉の声をたよりにして、 夢中で物をかき分け、 姉を引き出しました。 運良く、 けがもなく、 家族の無事が分かり、 ほっとしました。
 しかしそれもつかの間、 上を見上げると、 家の中にいるはずなのに薄明るい空が…。 それを見て、 愕然としました。 家が分裂していたのです。 「これからどうなるのかな私達…。 」そんな思いでいっぱいでした。
 しかし、 実際にはそんなボーっとしている余裕などなく、 とりあえず自分の荷物を出来るだけ小さくまとめ、 近くの中学校に避難しました。 「まさか、 こんな事が…。 」とずっと考えてきました。 正直言って、 今まで地震なんて自分には関係のない事だと思っていました。
 今までの生活が、 父や母や姉、 そして私の今まで築いてきた生活が全て奪われた気がしました。 「家族みんなが無事だったんだから良かったじゃない。」初めは、 そう言い合ってみんな支え合っていました。 けれども、 だんだん現実に引き戻されて、 生活を奪われたことに、 「どうして」「なぜ」の気持ちで気が狂いそうなくらいでした。
 丁度二ヵ月程度たつと、 ストレスはピークに達してきて、 よく家族内で口論しました。 まるで家族がバラバラになっていくような気がしました。 でも、 そんな時、 運良く私達一家は仮設住宅への入居が決まり、 そこでの新しい生活づくりに一生懸命になりました。 没頭しました。 今ではまさしく“狭いながらも楽しい我が家”になりつつあります。
 震災後、 本当にいろんな事がありました。 いろんな人達とも出会いました。 地方からのボランティア活動の人、 同じ町内でも全く知らなかった人達…。 震災を被った人だからこそ分かる悲しみ、 苦しみ、 くやしさ。 嫌ほど味わいました。 でも、 その反面、 震災を被った人だからこそ分かる人と人との触れ合いや家族の絆、 優しさも知りました。
 後から聞いた話ですが、 父は、 地震の揺れの間、 母の上に覆いかぶさり、 身を挺して守っていたそうです。 それを聞いた時、 感動し、改めて父の大きさ、 優しさに気付きました。 いろんな想いをしたけれど、 私は命があって本当によかった。 家族みんなが生きていて本当に良かった。 そう思います。  このことがあって、 命ある限り、 私はどんな苦しい事にも立ち向っていけると思います。 震災で失ったものには、 大切なものがたくさんあるけれど、 それに劣らない、 たくさんのかけがえのないものを得ることが出来ました。
 生きていることの素晴らしさ、 そして、 生きている限り、自分の人生は自分の手でしっかりと切り開いていくこと、 そしてしっかりと足跡を残していくことが、 私が震災で学んだ事の一つなのです。

(応用化学科 ■■・芦屋市)

□ 人のために尽くしたい

 この地震では、 たくさんの物を失った。 しかし、 得たものもあった。
 地震によって家の中はグチャグチャ、 水も出ないし電気もつかず、 片付けようがないので、 しばらくの間近くの小学校へ避難していた。 その時、 人間はすばらしいと思った。 それは救援物資の事である。 日本中、 いや他の国からもいろんな物が次から次へと送られて来た。 北海道で地震があった時、 何もしなかった自分が情けなくなるくらいに。
 各地からボランティアの人達が来て、 神戸の復興を手伝ってくれている姿を見た時、 次に何かあったら自分も人のためになろう、 と思った。 いろいろと助けてもらっている被災者の人達はすごく喜んでいた。 自分もいつか、 そんな喜ぶ顔を見たいと思う。 公共広告機構のCMの 『人を救うのは、 人しかいない』 というのを聞いた時、 本当にこの言葉は忘れられないと思った。

(電気工学科1年 ■■・神戸市長田区)

□ 人

 この震災で一番感じたことは人には 「人」 がなくてはならないということである。
 つぶれた家から逃げ出す時に助け合ったり、家の下敷きになったおばあさんを助け出す時、 力を合わせて救い上げたりした家族というのは本当になくてはならないとあらためて実感した。 靴や毛布がなくて困っていた時に、 それほど多く持ってないにもかかわらず貸してくれた近所の人、 また地震から3、4日たった時から今までいろいろと世話してくれたボランティアの人たち、 いろいろな物を送ってきてくれた人々、 それらの人々の事を考えると、本当にありがたくて今までで一番うれしかったし、 この人達がいなかったら、今僕はここにはいなかったはずだと思う。 そのような中で過ごした1か月は、 本当に忘れられないし、 本当にいい経験になったと思う。
 しかし、 そう思うと、 僕の他にももっと困っている人、 つまり地震の被災者だけでなく、 あの雲仙普賢岳の被災者もそうだし、 奥尻島の被災者もそうだし、 アフリカなどでも飢えで苦しんでいる人がいる。 今は自分自身生活するのに大変なのでその人達を助けてあげることは出来ないけれども、 いつかまたあの地震のように大変な事が起って困った人々が出てくるようなら、 僕も自分がしてもらったようにいろいろ物を送ったり、 ボランティアなどに協力して、 少しでも困った人達を助けられるようにしたい。 多分これが震災で助けてもらった僕の使命だと思う。

(電子工学科2年 ■■・神戸市東灘区)

□ 土木技術者として

 今から半年程前に起こった地震。 今でもはっきり覚えているが、 日々少しずつ忘れている事もあると思う。 しかし、 あの地震が起きた事を決して忘れてはいけないし、 震災から少しでも学んだ事は無駄にしてはいけない。 みんなが住みやすい街、 安心して暮らせる街を造るのが土木技術者の仕事である。 それが今回の地震では、 地震が起きても大丈夫と言われていた構造物が多くの被害を受けた。 これを 『大きな地震だったから』 で終らせてはいけない。
 僕は今回の地震により多くの物を失なったが、 たくさんの人達からの励ましのおかげで今家族全員が無事暮らせていると思うと、 本当に言葉で表せない程感謝しています。 その気持ちを忘れずに、 今度は僕が土木技術者になった時に自分の体験を生かし、 少しでも力になれるように頑張って行きたい。

(土木工学科5年■■・神戸市長田区)

□ 心の片隅に…

 地震からすでに半年が過ぎましたが、いまでもまだ私には夢であったような気がします。しかし、私が住んでいた家がなくなって新地になっているのは現実ですし、初めて会う人から「地震、大丈夫でしたか?」と聞かれるたびに、ああ、夢ではなかったんだなあ、と気付かされます。
 地震の前までは、奥尻島で地震があったときも、「大変なんだなあ」と思うぐらいで、あまり気にもしていませんでした。今回、私自身が被災することによって、被災者がどれほど大変かを少しは理解できたと思います。
 地震のあと少しの間は、これからは何事も他人事で済まさずに、自分がその立場に置かれた場合を考えていかなければならないと思いましたが、やはり実際に自分が体験しないことには本当のことはわかるはずがないと今では考えるようになりました。
 特に、私は“喉元過ぎれば熱さを忘れる”タイプなので、自分が体験した地震のことさえ忘れがちです。いつも地震のことを考えていなければならないとは思いませんが、すべてを忘れてしまっていいわけではない、と思います。
 今までは毎日をただ漫然と過ごしていたように思いますが、これからは、地震のときに得た貴重な体験を忘れることなく、それを活かせるような生活をしていきたいと思います。昨日までの現実は変わりません。しかし、未来は自分で選べるのですから。

(平成6年度機械工学科卒業生 ■■・西宮市)

□ ほんとうの助け合い、ほんとうの復興

 少し前に中学の時の先生に会って話をした。いつも元気な先生なのに、 疲れているような感じがした。 でも、 学校に避難している人達が仮設住宅に全員入居することができて、 やっと本来の仕事に専念できることが嬉しそうだった。
今でも避難所や待機所にいる人に対して少し離れた場所から見ている人は、 「空いた仮設住宅があるのに、 遠い、 知らない人ばかりだと言って甘えているのではないか」 と思っているかも知れない。 しかし、 一人一人にいろいろな事情があるから仕方がないのです。 僕の友達で、 今も待機所にいる家族や、 その周辺の人達を見ている限りでは、 昼間もクーラーが効いているのに、 寝ている人はもちろんのこと、 本当に誰もいない。 みんな仕事や、 するべきことがあって出掛けている。 自分の生活を取り戻すために努力している人達に、 とてもじゃないけど、 甘えてるなんて言葉は合わない。 もっと優しく、 もっと長い目で見てあげないといけないと思う。
 最近、 新聞でこんな記事を見つけた。
 あなたは震災で被害を受けた人に対して、 どう思い、 どう行動したか?と言う問いかけに、 「かわいそうだと思った。」 「寄付をした。」 「頑張れとしか言えない。」 「ボランティアをしたくても遠いし、 すでに多くの人がやっているし、 何となく恥ずかしい感じもする、 第一その体力も時間もない。」 と答えているのです.
 では、 自分の両親や子供がそういう状況の時にも同じことを言えるか?と書いてあったのを見て、これが本当の 「助け合い」 やねんなあ、 と痛感した。
 一面焼け野原になってしまった鷹取商店街は僕の通学路でもあるし、 知っている店もあった。 今は仮設の家がポツポツと建っているだけで、 その空いてしまった空間の大きさを前にため息しか出ない。 地震直後は黒い塊だらけで、 昼ごろ行った時は教会が燃えているところで、 夜に中学校で泊まった時もまだ空が赤かった。 大量のガレキが取り去られると、 視界がすごく開けて、 山がすぐ近くに見えるし、 新地には雑草が伸び、 ボランティアの人が配ったヒマワリもたくさん生えているので、徐々に緑色の町という感じがしてきた。 もしかすると、 地球は地震などの天災を使って、 元の自然豊かな姿に戻そうとしているのかも知れない。 今回、 地震によって自然の恐ろしさをイヤと言うほど見せつけられたけど、 木は1本も倒れなかったし、 木のおかげで延焼を食い止めた場所もあった。 植物を見ると、 落ち込んでいる人も気分が和らぐ。 自然は本当に大きくて素晴らしいものだと再認識できた。 もしあの日、 月の光がなかったらと思うとゾッとする。
 今、 仮設住宅に入っている人や、 待機所にいる人達の他にも、 親類や知人の家に身を寄せていたり、 無理をして家を借りた人達がいる。 家のない人達をそのままにしておくのはとても危険なことだ。 僕の祖父は仮設のコンテナハウスが完成する1ヶ月前に突然亡くなってしまった。 避難先でストレスもあったと思う。 かなり悔しい。
 復興には時間がかかるけど、 友達全員で野球ができるようになった時が、 自分達にとっての復興だと思っている。

(土木工学科4年 ■■・神戸市須磨区)

□ ジレンマ

 私の家は比較的被害の少ない地域にあったため、水道と電気の供給は震災後数日で回復しました。
 水と電気で出来ることはご飯を炊くことでした。毎日ご飯を炊いてはおにぎりを作り、避難所が集中している地域に運びました。
 私たちは、被災地での炊き出しも同時に行いました。そのときにはボランティア活動をやっているなどという考えは全くなく、ただただ何かしなければという気持ちでいっぱいでした。あせっていたと言った方がいいかもしれません。同じ神戸に住んでいながら、自分のところは助かったことにどこか後ろめたさを感じていました。今でも、ボランティアをしたなんて思っていません。
 毎日毎日、家を失った人々と接し、なかなか行動を起こしてくれない行政に怒りながらも、結局なにもできない自分にいらだちました。私には被災された方の話を黙って聞くことしか出来なかったのです。
 日を追うごとに人々はいらだちを隠そうとしなくなり、私たちには疲労がたまりつつありました。その頃、高専も授業が再開されることになり、私は卒業研究のまとめに追われ活動からは遠ざかる結果となりました。
 春には神戸を離れましたが、どこへ行っても大丈夫でしたかと聞かれます。その度に被害の少なかった私が被災者面して話すのはおこがましいように感じられ、曖昧な答え方をしてしまいます。
 今振り返って思えば、もっともっと出来ることがあったはずで、なにより途中で投げ出す形となったことが非常に悔やまれます。私のしたことは役に立ったと言えるのかしらと疑問に感じることもあるのですが、味噌汁の入ったコップを受け取った人の笑顔を思うと、決して無駄ではなかったと思うのです。いや、そう思いたいのです。
 ボランティア活動というのは本当に難しいものです。善意でしていることを自己満足の追求と受けとられることもあります。また、災害から日にちが経てば、それだけ人々の要求もこまかくなっていきます。そしてなにより、どうして私だけが、という被災された方のいらだち。周りを見れば被害の軽かった人もいるのですから、これは当然の心理だと思います。それらすべてを、ボランティアで活動している人にぶつけることになるのですが、それで解決されることは少ないはずです。反対に、その気持ちに答えようとする人達が無力感を味わってしまうことになりかねません。
 やはり、民間の力ではどうしようもない事が多々あります。速やかな行政の対応が必要だと思います。今回の阪神・淡路大震災の体験から日頃の備えの大切さを学びました。それは物質面だけでなく、すばやく的確に住民を導ける行政であることもまた非常に重要なポイントだと感じました。

(平成6年度土木工学科卒業生 ■■・神戸市須磨区)

□ ボランティアとは?

 僕の家は神戸市長田区にあり、 かなり地震の被害も受けましたが、 その震災後の生活で一番助かったのは、 個人や団体によるボランティアです。 地震直後は、 ボランティアといっても、 避難先の■■高校の教職員の方だけ、 物資的にもパン2個ずつ、 こう言っては失礼ですが、 粗末な物でした。 しかしそれでもかなり助かったのは事実です。 次の日ぐらいからは■■高校の生徒なども手伝っていました。 どこからか届いた水を運ぶのを主に手伝っていました。
 僕の家はかろうじて壊れず、 避難所にいたのも数日間だったので、 よく水汲みに行きましたが、 友達も数人いました。 中学の時、 結構仲がよかった友達に「えらいなあ」とほめたら、 「遠くから来てくれとう奴もおんのに、 俺等がやらんでどないすんねん。」 と言われました。
 その友達は、 別に僕にもボランティアをしろと言っていたわけではないのだと思いますが、 僕も何かしなければいけないという気持ちはしていたけど、 めんどくささと、 でしゃばったら恥かしいという僕の心の貧しさもあり、 また、 ボランティアは自分の好意でするものであり、 嫌々やるものではない、 と自分に都合のいい理屈を作り、 結局のところ、 家の用事しかしませんでした。
 震災後、 少したった頃、 ボランティアをやめたいと言った女の子が、 上の人に怒られ、 正座させられたと言う事件がニュースで取り上げられました。 これに対する意見も様々だと思います。 その怒った人の側にすれば、 震災で困っている人を助ける気持ちはないのかという気持ちで、 女の子にしてみれば、 それよりも優先したい事ができたのだと思います。 それはそれでいいと僕は思います。 ボランティアはどんな理由にせよ進んでするものであり、 強制されてするものでなく、 強制された時点でそれはボランティアではなくなっていると思います。 確かに受けている側にしてみれば、どちらでも一緒だと思いますが、 ボランティアは、 本来志願者という意味で、 その活動はただ人を助けるだけでなく、 自分の精神を高める意味もある、 と自分自身で勝手に思っています。 この震災後のボランティア活動を見ていて、 ボランティアの意味を改めて考えさせられました。

(電気工学科3年 ■■・神戸市長田区)

□ 苦難の山を越える


『葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。
この山道を行きし人あり。』

こんな歌を一年生の国語の授業で習ったのを覚えている。大正13年に釈迢空が詠んだもので、「踏みにじられた葛の花の真新しい紫紅色が土ににじんでいる。ああ、私の前にこんな山道を通って行った人がいるのだ」という意味らしいが、当時はあまりにも単純で平凡な歌としか思えなかった。
 短歌のくせに句読点なんか入れてどういうつもりだろう。それに「私の前にこんな山道を通って行った人がいるのだ」よりも「私は今、誰も通ったことのない山道を独り行くのだ」の方が格好がつくではないか。他人の通った道を同じようにたどって、何の感動があるのだろう。…こう思っていた。
 しかし、阪神淡路大震災を経てからは、この歌の「山」は苦難をたとえているように思えてきた。「大震災」という苦難の山。
 ぼくたちの前にもこの山を越えなければならなくなった人々はいくら居たかわからない。
 でも、苦労してとうとう乗り越えた人は、汗と涙を流した分、強くなっているに違いないと思う。ぼくたちは彼らの後を追ってこの山を登って行かねばならないわけだが、そうすることによってのみ、これまでにも地震の被害を被った人たちの悲しみやつらさを知ることができ、また、知恵や力も得られるのではなかろうか。
 今度の地震は規模が大きかっただけに、山を越えなければならない人の数は多いと思う。その中には心身に傷を負ったり、家や仕事や愛する人を失ったりした人…重い荷を背負って登らなければならない人がとてもたくさんいるだろう。この苦難の山を登る試練に耐え、無事にそろって峠を越すために、今、ぼくたちは手を取り合って助け合い、励まし合ってゆくことが必要だと思う。

(機械工学科2年 ■■・神戸市垂水区)

□ 社会を見つめる

「おにいちゃん、あのおまわりになんとかせえ言うてえなぁ。このままやったら私らの家まで焼けてまうで!」
 地震発生から半日ほどたった1月17日のお昼頃。友人の安否を確認するのに立ち寄った板宿(須磨区)で燃え上がり迫りくる炎を前に、見ず知らずの初老の女性が私に訴えてきました。そばにいた警察官・消防署員は水がないため消火活動ができず、ただ茫然と周囲の様子を見つめているだけ。時折聞こえる消防車のサイレンは過ぎ去っていくばかりです。今回の震災では人命軽視・利益優先の政治姿勢やそのもとでの地震対策の軽視など、多くの点で日本社会の矛盾点が吹き出ました。私は、震災の悲劇を繰り返さないために、根本から転換しないといけないと考えます。
 震災後私は、微力ながらもボランティアとして避難所や街頭で物資の配布などを行い、被災者の多くの方が、全てのものを失いながらも助け合い励まし合って生きている姿や震災ボランティアたちの行動に人間本来のあたたかさと力強さを学びました。しかし、ボランティアだけでは根本的には何の解決にもならないことに歯がゆさも感じました。それだけに、自分の存在がすごくちっぽけなものに思えました。
 実際私は大きな存在ではありません。しかし、自分と社会との関係に目を向け、そして社会の矛盾がどこにあり、それを克服するために何をすればいいのかを学び、行動することはできると思います。このことは同時に、エンジニアとしてどう生きるのかということも含まれると思います。地震後神戸を離れ、テレビなどでその後の様子を知るたびに、そのことを強く思います。

(平成6年度機械工学科卒業生 ■■・神戸市垂水区)