神戸高専 情報教育センター広報(NO.8,1996.03)


コンピュータ雑考(An Impression on Computer)

九鬼 導隆(Michitaka KUKI)


 私はコンピュータの専門家でもなければ,情報処理教育を担当しているわけでも,情報処理に特に詳しいわけでもない.しかしながら,研究や趣味にコンピュータを使い,また,日常見聞きすることからコンピュータについての様々な考えが浮かんでくる.ここでは『パソコンにむかひて,心に移りゆくよしなし事を,そこはかとなく』タイプしてみた.

 最初にこの雑考の構成を要約すると,【「電子計算機」から「メディア」へ】と【グラフィカル・ユーザー・インターフェイス】でコンピュータがメディアとして発展した過程を概観し,【コンピュータ通信】と【マルチメディア】でコンピュータのメディアとしての可能性を考え,【パソコンと社会】でメディアとしてのコンピュータが来たるべき社会でどのような意義を持つかに思いを巡らせ,【情報洪水】と【メディアの独り歩き:ハイパー「カネ」】でコンピュータの危険性を考察し,【おわりに:両刃の剣】で私の見解をまとめよう,というものである.


【「電子計算機」から「メディア」へ】

 一昔前までコンピュータは「電子計算機」であった.そもそも,歴史的に有名なENIACも高射砲の弾道計算や大気力学に基づいた天気予報といった軍事目的の「計算機」であった.(ちなみに,日本ではコンピュータの発明者はフォン・ノイマンで世界初のコンピュータがENIACであると言われているが,コンピュータ自身は1930年代にアタナソフによって発明された.)

 私が大学生であった頃の日本でも状況はあまり変わっていなかった.この頃,NECからPC98シリーズが発売となり16ビットパソコンの話題が盛り上がった.しかし,コンピュータの使い方は依然として「電子計算機」で,大がかりな科学技術計算はメインフレームの大型計算機で行い補助的な計算をパソコンでやるとか,パソコンで機器分析装置からデータを取り込みデータ処理を行うといったところが主で,頑張ったとしても清書用のワープロマシンという使い方が一般的であったように思う.

 私も98のVX2という機種を買ってもらったが,大学の学生実験や卒業研究でデータ処理のプログラムを自作し誤差処理などの計算をやらせたり,卒業論文の清書をしたりといった使い方が主であった.

 しかし,今やコンピュータは「メディア」としての発展をとげた.たしかに機械としてみればコンピュータは電子計算機ではあるが,いわゆる「電子計算機」としての用途はコンピュータの一部分となってしまった.これにはパーソナルコンピュータという発想とそれを可能にしたテクノロジーが不可欠であった.

 一昔前はコンピュータ自身が非常に高価でかさばるものであり,コンピュータを使えるのはある程度コンピュータのハード面や複雑なコマンドを理解している理系のスペシャリストであった. コンピュータを用いたネットワークやデータベースなどは在ったであろうが,限られた人のもの,例えば,政府だったりペンタゴンやCIAであり,象徴的に人々を管理するもの・権力的なものという側面も持ち合わせていた.

 このような状況下,パーソナルコンピュータが登場し,1960年代にアメリカの若者のカウンターカルチャーの中からアラン・ケイの「ダイナ・ブック」というアイデアが生まれた.「ダイナ・ブック」とはパソコンの進化した形態で,パソコンを個人の思考能力を一挙に高め増幅する道具,個人の創造的活動を媒介し支援する道具,頭脳の一部を外部に取り出した個人の創造性を飛躍的に高める道具として位置づけたのである.個々人がパソコンを所有し思考能力や創造性を高めメインフレーム(=権力)に立ち向かおうというわけである.


【グラフィカル・ユーザー・インターフェイス】

 生まれたばかりの,アイデアとしての「ダイナ・ブック」はまさに夢の機械であった.しかしコンピュータの進歩の早さはすさまじく,より高速で,より小さく,より安価なコンピュータが次々と登場し,いまでは一昔前のスーパーコンピュータに匹敵するようなパソコンがそれなりの値段で買えるようになった.今や夢の機械ではなくなってきている.

 この中で1980年代に登場したAppleのMacintoshはOSとしてグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)を採用した点で大きな意味を持っていた.私は現在Macを使っているが,恥ずかしながら,Macがポピュラーになってきた頃でもこのOSの重要性が理解できなかった.その頃,よく友人と話していたのは,Macはブラックボックス化を煽るから良くない,みたいなことだったと記憶している.コンピュータで主に科学技術計算をしていた関係から,コンピュータを使うのだったらそれなりにハードのことやプログラミングなどを知っていないと危険である,と考えていたと思う.Macの発想がrest of usであったように,今まで一部の人しか使えなかったコンピュータをより多くの人に使えるようにした,まさにその点が画期的であったのである.

 例えば,コンピュータ通信で意見のやりとりをする,データベースを構築するなどのことを考えると,そこに参加できる人の人数やタイプは多い方が良いのである.コンピュータが理系の一部の人にしか扱えないのなら,そこで交換される意見や構築されるデータベースは一部の理系の人の意見でありデータベースとなってしまうので,非常に偏った,利用価値の低いものになってしまうであろう.

 また,「ダイナ・ブック」はすべての個々人が使える道具でなければ意味を失ってしまうことになる. 今やメジャーなパソコンのOSはWindows,Mac,OS/2 Warpなど,GUIになってしまっている.


【コンピュータ通信】

 私は現在Nifty-Serveに加入していて友人との連絡は主に電子メールである.また,海外の研究者と共同研究しているのでInternet経由のメールのやり取りも行う.私がNIfty-Serveに入会する一つのきっかけはある友人が話してくれたコンピュータ通信の話である.

 その友人は某企業の研究所に所属しており,ある時,その企業の技術・研究部門のえらいさんが,その研究所員全員が集まったときに, これからのコンピュータではある言語が重要だ,と言うことを話したらしい.不幸にも彼の所属している部署ではその言語がどういうものでどういう意味を持っているのか,わかる人が一人もいなかった.そこで,彼は企業内のコンピュータ通信を使ってその言語について質問を各方面に出したところ,その日の夕方には質問に対する答えが返ってきていた.それを部署内で回して事なきを得たのだが,質問に答えてくれた人はその方面に非常に詳しい,かなりのえらいさんで,研究所から地理的にかなり遠い部署の人だったらしい.

 彼が言うには,「通常,そのえらいさんに会おうと思えば上司にお願いして約束をとりつけ,菓子折の一つも持って出張と言うことになり時間がかかる.第一,その人がよく知っているという事をつきとめるのにも非常に時間がかかる.」

 日本人は昔,よく手紙を書いたそうだ.だが,手紙の往復には時間がかかる.電話の普及により通信手段は電話にとって代わられた.しかし,見ると聞くとでは情報量がかなり違うし,音声はその場限りで消えてしまう.また,電話は相手がその時そこに電話を受けることのできる状態でいないと成立しない.そこで,Faxが普及することになったのであるが,コンピュータ通信はさらに革命的である.

 まず,送られてきたものがデジタルデータであるから簡単に加工し転用することができ,また,送信による劣化がない.例えば,Faxで送られてきたものを自分の書く手紙やFaxで引用しようと思えば,書き写したり,タイプし直したり,切り張りをするということになる.パソコン通信の場合はワープロやエディターで引用したい部分をコピー&ペーストすれば良い.また,Faxで送られてきたものをFaxで転送すれば当然画質は劣化していく.

 さらに,不特定多数を相手に質問を投げかけることさえ可能となる.例えば,Nifty-Serveではいろいろな趣味や嗜好に応じてフォーラムが形成されており,その中に会議室がある.Macのユーザーフォーラムなどもあり,自分が使っているMacでトラブルが起こり解決できないときなどはこのフォーラムの会議室にそのことを出しておくと,それを見た全く面識のない人からでも「同じトラブルが起こったことがあるがこうしたら解決した」とか,ときにはコンピュータ修理の専門家から「こうやって治らなければ修理に出した方が良く,だいたいいくらかかる」という情報まで得られることもある.コンピュータ通信はすべての人々が活発にコミュニケートし得るとんでもない社会性を持っていることになる.

 また,研究の形態やときには内容まで変えてしまう力も持っている.最近は研究も学際的になったり規模の大きなプロジェクトが計画されたりして研究者間の共同が必要となる場合が増えてきている.しかし,日本とヨーロッパやアメリカの研究者が共同研究するには意志疎通や議論のための通信手段が必要不可欠となる.こうなるとInternetの存在は大きな意味を持ってくる.

 最近,カントやヘーゲルの著作がデータベースとしてオンライン化されているそうだが,これが研究内容の変化や効率化をもたらしているとも聞く.例えば,ヘーゲルならヘーゲルで,ある単語がどういう意味でいつ頃から使われ初め,どの著作のどの部分に何回登場するかなどを調べてその哲学の概念形成をたどるといった問題は,著作がオンライン化されているかどうかが鍵となってくるだろう.検索能力が飛躍的に増大するのもコンピュータのなし得る技である.


【マルチメディア】

 最近,世間でマルチメディアという言葉を良く聞くようになった.しかし,そこでは,ビデオ・オン・デマンド方式で家のパソコンを操作するだけで好きなときに好きな映画を見ることができる,とか,オンラインショッピングで家にいながらショッピングができる,などがもてはやされているが,極端な話,そんなことはどうでもいいことである.マルチメディアはメディアとして新しいわけではない.文字は文字,音声は音声,映像は映像と,今まで異なった土俵の上で独立に扱われていたものが,0,1というデジタルデータとなり同じ土俵の上で総合的に,双方向性を持った,加工・転用可能なコミュニケーションとして成立するところが画期的なのである.

 例えば,読者の反応を見ながら小説を書いていったり(筒井康隆氏がすでに行っている),遠くにある図書館の野鳥図鑑がその場で高速に検索できて,文字や図による情報だけでなくムービーで鳥の鳴き声や飛んでる様子が即座に理解できたり,遠隔地同士でテレビ会議を行い,後で編集して遠隔地にいる第三者に議事録として見せたり,ということが可能になってくる.

 これはまさに人間のコミュニケーションを全世界的な規模で活性化し時間と空間の壁をぶち破る,また,個人の創造的活動を支援し高める潜在能力を持っていることになる.


【パソコンと社会】

 中世・封建制度社会から近代・資本主義社会に移行した意義は何だったのか.私は社会性だと考える.封建制社会では人々の人間関係,社会関係はおそらく国家のレベルを超えてはいないだろう.例えば,その国の経済システムなどはその国のサブシステムであり,社会関係や物流などは国家の中の一つの共同体の中で閉じている.

 しかし,資本主義は国家の壁をぶち破る社会性,社会関係を手に入れた.カネ(金)は日々世界中を駆けめぐり,例えば,日本の資本が第三世界の工場で組み立てた家電製品を使い,トンガ産のカボチャを調理して食べ,そのカロリーをアメリカ製のコンピュータで計算する.もはや世界は一つの資本主義システムであり,国家はそのサブシステムとなってしまった.

 また,「ある商品の価値はその商品の再生産に必要な社会的平均的労働量で規定される.」と言ったときの社会的平均的という言葉は一つの社会全体にまたがる社会関係,社会性が前提となっている.まさにとてつもない社会性を手に入れたことが資本主義の意義である.

 では,資本主義の問題点はどこにあるのか.資本主義では人と人との関係を物,つまり,商品と貨幣が媒介する.たしかに非常にローカルな範囲では人間の直接的な関係は可能である.しかし,ほとんどの場合人間は商品や貨幣の所有者としてしか表れず,社会関係は商品と貨幣の関係になってしまう.資本主義でとてつもない社会性を手に入れたのは実はカネの方だったのである.今の社会はまさにカネの中にある.

 では,来るべき次の社会はどうなるのか.資本主義の意味は社会性であった. しかし,その社会性はカネが媒介しカネが握っている.次の社会では,カネが獲得した社会性を人間が取り戻し,すべての人々が全世界的に活発にコミュニケートして社会性を全面的に展開するようになる,と私は考える.こう考えると,今までの節で考えていた「メディアとしてのコンピュータ」が持つ可能性が社会に対して非常に重要な意味を持ってくることになる.「メディアとしてのコンピュータ」は人々のコミュニケーションが全世界レベルまで活性化し,個々人がまさに社会的になる来たるべき社会への変革のブレイク・スルーと成り得るのである.


【情報洪水】

 ここまでメディアとしてのコンピュータの良い側面だけを述べてきたが,同時に非常に危険な側面も持ち合わせている.その一つが情報洪水である.今や,コンピュータ通信を始めるとその場にいながらありとあらゆる情報が即座に取り出せるようになった.それこそとてつもない量の情報がいとも簡単に入ってきて個人の処理能力を軽く超えてしまう.ある目的のためにはどの情報がもっとも重要でどの情報を捨てるのか,無駄な情報をつかまずにいかに重要な情報のみを集めるのか,それをどう加工していかに活用するのか,そこでコンピュータをどう用いるのか,などの個人の情報処理能力のレベルアップが必須となる.

 さもなければ情報はまさに洪水となり,情報を処理しきれない個人は判断停止の状況に追い込まれ洪水に押し流されてしまう.もしくは,情報を操作するのではなく情報に(もしくはその流し手に)思いどおりに操られてしまう.

 これを回避するにはパソコンが「ダイナ・ブック」とならなければならない.そのためには,パソコンの進化もさることながら,情報処理を科学する事が必要である.人間が情報を処理するプロセスはどうなっているのか,そして,人間が目的を達成する,もしくは,障害を乗り越えるプロセスはどうなっているのかを理解し,そこにコンピュータがどう生かされ,どう用いると個々人の能力を活性化できるのか,が理解されなければならない.さらには,コンピュータを用いることでそのプロセスがどう変化するのか,もしくは,どう変化させるとより活性化されるのか,そのためにはコンピュータをどういう作りにしなければいけないのか,が検討されなければならない.

 現在のコンピュータ教育はコンピュータや特定のソフトの動かし方の講習会かプログラミング入門である場合が多い.また,オジサン族などが講習会に通ってコンピュータの動かし方を覚えることに必死である.しかし,OSなどの進化によりコンピュータを動かすこと自体はもっともっと簡単になって行くはずである.これから先,重要なのはコンピュータの動かし方ではなく,コンピュータをいかに使うか・コンピュータの使い方である.コンピュータに使われるのでなくコンピュータを使わなければならないのである.


【メディアの独り歩き:ハイパー「カネ」】

 メディアが高度に発達してくると独り歩きを始める.カネはメディアである.しかし,現代ではカネは目的であり主体である.日々の活動はカネ=資本の自己増殖に費やされ,カネを持っている奴が強いし発言権もある.すべてがカネを中心に回り,人々はカネに支配され商品化していく.資本の側が常に我々に仕掛けてきて,我々はそれに反応し,資本の自己増殖にみごとに組み込まれている.

 例えば,今年はこの服が流行する,と仕掛けられ,ほとんど思考停止したまま多くの人がその服を買いに走る.個性という言葉が重要視されるこの頃だが,「この服を着れば,あなたの個性はより光輝く」というキャッチコピーに踊らされ,皆がその服を着れば個性とはいったいなんだ.

 さらに,資本の側はありとあらゆる方法を駆使して仕掛けてくる.よく,自然環境問題や女性差別問題などで企業が市民団体から批判や告発を受け,例えば,女性を蔑視していると言われたCMを引っ込め,フェミニズムの講演会を主催し,町の女性の意見を聞く,などのことを行ったりすることがある.このとき,あの企業はこういう問題に理解を示した,とか,市民団体の勝利だ,と考える方も多いかもしれない.しかし,これは企業が理解を示したと言うよりは企業の論理としてこうした方が良いと考えたからではないだろうか.例えば,購買層の企業に対するイメージが購買意欲に関わってくると判断した結果ではないか.私は,市民団体が企業を抑えたのではなく企業側,つまり資本が自己増殖のために市民団体を巧妙に利用している,と見えて仕方がない.

 賃労働と資本の関係が生まれた瞬間に人間は商品化されたことになる.しかし,資本主義が進むにつれて全ての物が商品化されていき,例えば,直接的な人間関係と思われていた局面まで,観念的に,物と物との関係と化してきている.「アッシー」君や「ミツグ」君などはこのことの一つの現象化ではないだろうか.これからの時代,資本の自己増殖に見事に組み込まれ骨の髄まで商品化していくか,毒を食らわば皿までで人間の商品化される過程を逆に人間が商品が手に入れた社会性を取り戻す過程に転化させるか,二つに一つである.

 当然,メディアとしてのコンピュータも独り歩きの危険性がある,というより,すでに独り歩きをしている.例えば,アメリカのMITで精神分析医のロボットが作られた.これは統計医学が発達してくると不可能な話ではない.患者がしゃべったことを分析して統計データと照らし合わしキーワードとなる言葉を捜し出す.そして,キーワードに関連した質問をして患者にしゃべらす.こういうことを繰り返していき一通りの診断を下すことができる.このロボットが結構優秀だったらしく,下手な医者よりよっぽど信用できるということでアメリカの精神分析学会は各病院にこのロボットを設置することを決議してしまった.これに驚いたのはそのロボットを作ったMITの学者で,「冗談じゃない.コンピュータは人間を超えるものではなく,人間のある部分を効率的に代行するもの,メディアである.人々があまりにコンピュータを過信するととんでもない目に遭う.」と,この決議に猛烈に反対した.

 今,世間はインターネットブーム.コンピュータができなきゃ時代に取り残されてしまうと猫も杓子もコンピュータを買いに走る.新聞を見れば,「コンピュータ位できなきゃ話にならぬ.そんなやからは採用しません.」と会社の人事の担当者.就職難にあわてた学生はコンピュータスクールへと通う.「流行に流されることを良しとしないので,あえてコンピュータはさわりません」というぐらいの人間を採用した方がよいのではと朝日新聞にあったが,なにかコンピュータが目的,もしくは主体として振る舞っている感が強い.コンピュータは人間が使うものであって決して人間がコンピュータに使われるものではない.

 こうなると人は判断停止,思考停止の状態に追い込まれる.例えば,事実を,現実を理解するためにコンピュータを使うのではなく,コンピュータの中にあることが事実であり,現実であるという倒錯が起こってしまう.しばしばメディアは権力側と結びつき人々を支配し統制してきた側面を持ち合わせてきた.コンピュータというメディアは今までのメディアとはけた違いにこの能力を持ち合わせているのではないだろうか.

 現在,カネ(資本)は非常に抽象化している.例えば,国と国とがカネを貸し借りする場合,実際にカネは動かず数字だけが動き,それに応じて国の発言権が変化していく.また,企業が別の企業から材料などを購入する場合でも,実際にカネが動くのではなく,オンラインを通して,銀行にある双方の口座の数字が変わるだけである.カネは抽象化してほとんど情報になっている.そして,「カネ」という情報は銀行のオンラインを始めコンピュータという「メディア」の中を飛び回っている.かくして「メディア」としてのコンピュータは「カネ」と結びつき,ハイパー「カネ」となって強力に独り歩きし,コンピュータに使われる人々の脳髄をパソコン化していくのではないだろうか.


【おわりに:両刃の剣】

 日本はどうもハード先行型である.欧米諸国では,こういうことをやりたいがどうしたら良い,というところからハードが開発された.つまり,ソフト先行型でハードは後からついてきたのである.しかし,日本では,アメリカでこういうハードが開発され輸入したが,なにに使おう,とソフトが後からついてくる.情報ハイウェイにしてもパソコンの普及率が高く,各場面でパソコンを使っているアメリカには非常に意味のあることであるが,日本では果たしてどれだけの意味を持ってくるだろうか.ハード,ソフトを文明,文化と読み換えても日本の特徴がよくわかるのではないだろうか.

 昨年はWindows 95フィーバーがすごかった.しかし,私はこのフィーバーぶりに非常に皮肉なものを感じざるを得ない.「Windows 95でパソコンが誰にでも簡単に使える.インターネットも簡単.」(「Windows 95って言ったってたいしたことはない.やっとMacに追いついただけでしょ」という,私も含めたMacユーザーの批判はこの際大したことではない.)と聞き,深夜零時の発売に遅れまいとパソコン・ショップには長蛇の列が形成された.

 当然,現段階でアラン・ケイの「ダイナ・ブック」が実現したなんてことではない.しかし,「ダイナ・ブック」,すなわち,人々の思考活動,創造的な活動を伸ばし支援する道具,情報洪水の中を泳ぎ切りハイパー「カネ」に操られないための道具,に一歩でも近づくためのOSソフトを購入するのに情報洪水に押し流され,Micro Softの戦略に見事にはまり,深夜のパソコン・ショップに並ぶ,というのは私には皮肉に見えてしかたがないのだが.

 メディアとしてのコンピュータはまさに両刃の剣である.人々の創造的活動の能力を高め支援する, 全世界的なアクティブな人間関係を媒介するメディアであり,人々を情報洪水で押し流し,ハイパー「カネ」となって脳髄をパソコン化して支配していくメディアでもある.

 私にでも使えると聞いて,時代においてかれないようにとパソコンとWindows 95を買うために深夜のパソコン・ショップに並んだオジサン族も結構いたと聞く.しかし,買って帰ったコンピュータが使えず, あるいは,使う目的が見つけ出せず,結局はゲーム機となっている場合も結構あるのでないだろうか.パソコンを買ったからといって文章が上手くなるわけでも絵が上手になるわけでもない. ましてやかきたいことが見つかるわけでもない.文章や絵をかく場面でそれを支援してくれる道具である.

 「ダイナ・ブック」となるかハイパー「カネ」となるか,まさに使い手の思考力,創造力のレベルが問われているのである.


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