神戸高専サッカー部 OB会

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 お知らせ

【R1年12/21サッカー部OB役員会】
日時:令和元年年12月21日(土)17時〜
場所:千人代官 本店(中央区小野柄通7-1-1 日本生命三宮駅前ビルB1F)
主な議題:役員改選
役員候補の募集:自薦、他薦により会長を含めた役員候補を募集します。
        候補者の氏名、卒業回生、卒業学科
        推薦人の氏名、卒業回生、卒業学科
        推薦理由を下記メールアドレスに送付してください。
        OB会会長 小崎 晴男 kcct.ob@gmail.com
        募集期間  令和元年11月14日(木)〜12月13日(金)

    ご参加、お待ちしています。

 お願い ※今後の連絡の経費削減のため、OBの皆様の電子メールアドレスをお伺いしております。
アドレスをお持ちの方は下記まで電子メールでご連絡いただけましたら大変助かります。
〒651−2194 神戸市西区学園東町8-3   神戸高専 応用化学科 下村
E-mail:shimo@kobe-kosen.ac.jp  @は小文字に
                              サッカー部OB会長 小崎晴男  サッカー部顧問 下村

 みなさまからの投稿をお待ちしています。          投稿先はこちら → shimo@kobe-kosen.ac.jp  @は小文字に

 昔なつかしい写真 誰だか分かりますか?

  日下部先生送別会&サッカー部OB総会(平成18年4月29日 於:学園都市ユニティー)







       幻!! サッカー部の旗              記念品送呈:テニス界へ転身か?           2代目顧問:藤田先生


           元祖OB                        中堅OB                         若手?OB

 6回生からの 投稿 

  *ま え が き*
 先日,我ら神戸高専サッカー部の恩師であられる日下部教授の退官を記念して,舞子台クラブ主催による先生を囲む会が開催されました。 もちろん私もそこへ出席し,久しぶりにご尊顔を拝した先生,諸先輩,そして後輩達と懐かしい話しに大いに盛り上がり,旧交を暖めあったところであります。
 出席したメンバーは,それぞれ当時の思い出を皆の前で披露をした訳ですが,私にとっては未だ学生気分の抜けきらない中途半端な怖じ怖じしたおじさんのため,ひきだしに沢山しまってある思い出をほんのちょっぴりしか出せず,全くの消化不良に陥ってしまった訳です。 なぜ,そんなに沢山の思い出があるのかよく考えてみれば,私は二つのことに起因するのではないかと考えています。
 一つ目は,ジェネレーションギャップではないかと考えています。 これは,中学を出て直ぐの少年が,高校生世代を2歳も通り越し,もう選挙権を持った20才の大人が混じった集団に入り,自分自身も大人になろうと背伸びをして付き合い始めるバランスの取れない成長期の滑稽さ。
 二つ目は,弱小クラブであったこと。 弱小といっても全てが弱小であり,入部当時はクラブではなく同好会でグランドもなく荒れ地であった第二グランドを使用し,もちろん経験者も皆無,いやただ一人2年上の先輩であった浜田さんだけという弱さ。 弱小であったがための滑稽さと一生懸命さ。
 そこで,サッカー部草創期のメンバーや思い出について思いつくままにおもしろおかしく書き残し,語り継いでやろうと自己中心的に納得をし,サッカー部に関わりのあった者達がこれを読み大いに笑ってもらい,再び思い出した仲間達と旧交を温めて頂ければ幸いと思います。
 どれだけ正確にまた,事実にもとづいて書けるかは,はなはだ疑問ですがそこは遠い昔の記憶ということで,お許しを願いたいと思います。 また,今後このことをサッカー部OB諸氏に広く知らしめて頂き,恩師も違えばキャプテンも違うといったそれぞれがそれぞれの時代で,少年,また青年だった頃の思い出話を書き連ねていって頂けることを願っています。
 ただし,もちろん記憶に残っているということは,とんでもない出来事か鮮烈な記憶になってしまいますので,非常に生真面目であった方やサッカーの上手かった方々は登場しないのではないかと思いますので,それらの方々の思い出は他の先輩,後輩諸氏にお任せを致します。 今後,どれだけ時間が許せるかにかかっていますが,話題別に以下の二つを表題に記録を始めます。

 1.草創期の記憶
 2.部員列伝
 平成17年2月19日 藤田 史朗(6S)

  *草創期の記憶*  VOL.1 『サッカーは命懸け』
 私は当初,中学時代に器械体操をしていたお蔭ですばっしこかったのか,体育の授業でラグビーの時間にスクラムハーフをやり,かの有名なD先生にそのことから勧誘を受けてラグビー部に入部を致しました。 しかし,通学に2時間もかかることや,アルバイトを捜していた関係で2ヶ月間ほどで退部し,もっと時間に余裕のある運動部としてサッカー部に入部を致しました。
 なぜ時間に余裕があるのかを感じたのは,まず練習の終了時間が早いこと,そして休みの日には練習はしていなかったからです。 後になって解ったことですが,なぜ練習の終了時間が早いのかは,早く終えなければならないそれなりの理由があった訳です。 当時のサッカー部は,まだ運動部として承認されておらず同好会として活動していたようです。したがって,校舎横のグランドが使えず学校から2km(走って20分程度だったかなぁ?)程度離れた第二グランドを練習場所としておりました。
 この第二グランドは,単なる造成地で,まあ言ってみれば広大な荒れ地でした。柵もなければもちろんゴールマウスも無い。あるものと言えば,大きく段差の付いた10mほどの法面と石ころだけ。 そして,この今あるものが我々にとっては,全く邪魔者であり必死で格闘するものになってしまう訳です。 初めて実験室前(まだ,部室が無かったように記憶しているのですが)に集合した私は,いきなり訳も解らず先輩からスコップとバケツを言われるがままに担がされ,囚人のような団体の列に加わって第二グランドまでの距離を走りました。
 囚人のような団体とは,まさしくそのものズバリで,スコップとバケツを抱えて,おまけに一輪車まで抱えている者もおり,また当時はアディダスやプーマなんてブランドは誰も知っているはずもなく,ある者は福助のアンダーシャツ,またある者は東洋紡の三桃印のランニングシャツとてんでバラバラの出で立ちでいました。
 足下はと言えば,サッカーシューズを履いているのは先輩連中のほんの僅かで,1年上の先輩の中にはダイエーで買ったであろう飴底で紐通しにアルミの丸い輪が付いた380円程度の白い靴を履いている者もおりました。後に私もこの靴のお世話になるのですが,何とこのアルミの輪がボールを蹴ったときにあたれば痛いの何の。練習が終わって靴を脱ぎ,足の甲を見れば内出血までしている有様。余談ですが,この靴を履き続けた白土先輩はほんとにすごい人でした。
 今だから言えるのですが,当時の高専に入学する者は中学時代に理数が得意であるにもかかわらず,大学に通えるだけのゆとりが家庭に無かったがため,手っ取り早く中堅技術者として一流企業に入れる高専という制度を選択したように思います。まあ,言ってみれば貧乏人が多かったのでしょう。間違ってはいないと思うのですが,どうでしょうか諸先輩方? もちろん,私もその筆頭みたいな人間でしたから皆とほぼ同様の出で立ちで,福助(これも密かな有名ブランドだったんだけどなぁ)のシャツだったように記憶しています。
 第二グランドに到着してすぐに納得した訳ですが,スコップとバケツと一輪車は石ころ拾いのためには欠かせない三種の神器だったんですねぇ!スコップで石ころを掘り起こし,バケツに集めては捨てに行く。これが私が体験した最初のサッカー部の練習でした。 一通りの作業を終えて,やっとその日のサッカーの練習に入る訳ですが,もちろん石ころ拾いは連日続くのですが,ここからが一年生が本領を発揮しなければならない球拾いです。
 最初は法面の端っこに立って待っているのですが,やはりそこは素人集団の悲しさで,そのうちにとんでもない方向にボールは飛んでいってしまいます。高山先輩の何処に飛ぶか解らない明後日キック,岩田先輩の宇宙キック,特にこのお二方は体格がいいので並はずれたキック力がありました。
 運悪く法面の端っこで待ち構えている1年生の遙か遠くを飛んでいったボールは,当然のごとく法面を滑り降りていってしまいます。 ここで皆さんもすでにお気づきのことと思いますが,練習の終了時間が早い理由はここにあった訳です。当然造成跡地の荒れ地でサッカーをしている訳ですから,周りに明かりなど全く無く,日が暮れ始めるとボールが全く見えなくなりサッカーどころでは無くなってしまいます。ましてや,暗くなってからボールがどこかへ飛んでいってしまうと見つからなくなってしまい,当時の弱小クラブにとっては大きな経済的損失を被ることになります。
 そこで,日が暮れ始めるとさっさと練習を終了し,再びスコップやバケツを担いで一目散に学校へと帰っていくのです。 さあ,ここからが球拾いの本領発揮となる訳ですが,法面というのは人工的にきれいに整形されて一定勾配が続くがけ面のことをいうのですが,法面を転げ落ちたボールは,当然脱兎のごとく急いで取りに行かなければならないのですが,足を掛けるようなステップが全く無いために勢いが余ったり,足を踏み外せば崖の下まで滑り落ちて大けがをしてしまいます。
 しかし,当然我々にも学習能力は十分に持ち合わせているので,法面の下にも球拾いを配置し,転げ落ちたボールは蹴り上げるといった分担作業を行い,大きなけが人も出さず無事練習を続けられました。 これが幸いしたのか当時の1年生は,大けがをしたものはいませんでしたが,やはり一度や二度は転げ落ち,打ち身や擦り傷程度のケガは経験をしました。
 これぞまさしくサッカーは命懸け!

  *草創期の記憶*  VOL.2 『動くゴールポスト?』
 皆さんには,すでにサッカー部創立時代の練習風景は,草創期の記憶VOL.1を読んで,お解りになって頂けたことと思います。
 当時のサッカー部が練習場所としていた第二グランドは,単なる造成地で,まあ言ってみれば広大な荒れ地で柵もなければもちろんゴールマウスも無い。あるものと言えば,大きく段差の付いた10mほどの法面と石ころだけ。
 新入りの1年生達にとっては練習どころでは無く,球拾いに明け暮れる毎日でしたが,サッカーの練習や,試合でケガをするのなら兎も角,球拾いでケガをするなんて悲しくもあり滑稽でもあった時代でした。 私自信,中学時代には運動部での経験があり,またシゴキで廃部になってしまった経験もあって,練習の上での体力的なしんどさには十分ついていけましたが,サッカー部での練習はまた違った意味でのしんどさがありました。
 先輩の中で最上級生といえば4年生だった訳ですが,4年生ともなれば私から見れば,もう十分におっさんな訳ですから,話しをするにもはばかられ,言われるがままのクラブ生活だったように記憶しています。それに,体育会系の定石とでもいうのか,訳もなくよく叱られたものです。しかし,シゴキやイジメなどは無く,それ以上に成熟しかかった青年の集団に,仲間入りした自分というものを感じ始めたことを覚えています。
 さて,サッカーの練習,いやサッカーをするのに必要な最低の道具と設備がなければサッカーは成り立たない訳なんですが,広大な荒れ地を練習場としていた我々には,もちろんゴールマウスなどはありません。まだ当時は,創立時代であったため同好会の身分であり,予算も皆無ではなかったかと思います。当然,ゴールマウスが無ければシュート練習も成り立たない訳ですから,その役割を担うものが必要になります。
 やはり,当時の先輩諸兄には頭が良く,機転の利く先輩がおられたのでしょう。周りを見渡せば球拾いの1年生が沢山いることに目を付けられ,その中で二人や三人欠けたところでどうってことは無い訳ですから「そこの1年!ちょっと来い!」ってことになります。
 さあ,そしていよいよ人間ゴールポストが登場です。
 サッカーの上手かった先輩諸兄のシュートは,ポストを狙わずして嫌が応もなくポストを目指して飛んでくる。それに石ころだらけのグランドでサッカーをやれば,ボールの皮がだんだんとすり減って扁平な形になり,自然に揺れたり曲がったり,そして落ちたりするのはご存じですよね?決して,バナナキックが上手な訳ではなかったんですよ,先輩諸兄!
 そして特にひどいのは,希にキックの瞬間に同時に地面を蹴って,ボールと一緒に飛んで来る石ころ。これも当たったら痛い!あるいは,ボールに当たった石ころが一緒に飛んでくるのか・・・おまけに,至近距離からのシュート!
 前を向いて,立たないとどこからボールが飛んでくるのかわからないし,当たると痛いからよける。すると,当然「ゴールポストのくせに動くな!」という先輩諸兄からの罵声が浴びせられる。
 先輩!人間のゴールポストは動くものなんですよ!
 その後,ようやくにして,どうして調達したのかを私は知りませんが,足場丸太やロープを調達し,それを部員のみで組み立てて手作りのゴールマウスが出来上がりました。この瞬間,私の胸の中にある種の感動が湧き上がったことを記憶しています。